ブルターニュ公ジャン4世(3)
文字数 1,090文字
しかしジャン4世はゲクランの後を継いで大元帥に就任したオリヴィエ・ド・クリッソンと対立、1386年と1387年にシャルル6世とクリッソンが推進したイングランド上陸作戦に協力しなかったこと、クリッソンが娘のマルグリットをジャンヌ・ド・パンティエーヴルの息子ジャン1世・ド・シャティヨンに嫁がせたことが重なり彼の排除を計画、1387年7月にヴァンヌに議会を招集してブルトン人貴族を集め、クリッソンを誘い出して捕らえた。
当初はクリッソンの暗殺を考えたが貴族達の反対に遭い断念、クリッソンから膨大な身代金と領土を奪う代わりに彼を釈放した。直後、クリッソンがシャルル6世に訴えたため王が紛争に介入、ジャン4世はクリッソンと一時的に和睦した。
だが5年後の1392年に再びクリッソンの暗殺を謀り、ピエール・ド・クラン(後のフランス元帥ジル・ド・レの母方の曾祖父にあたる)を刺客に差し向けた。クランはシャルル6世の叔父の1人・アンジュー公ルイ1世に仕えていたが、主君の財産を横領して追い出されるとシャルル6世の弟・オルレアン公ルイへ小姓として仕え直したが、醜聞を暴露してオルレアン公からも出仕禁止を言い渡されていた。ジャン4世は没落の原因はクリッソンがオルレアン公をそそのかしたからだとクランを騙し、彼にクリッソンを襲わせた。
しかし殺人は未遂に終わり、ブルターニュへ逃げ込んだクランを冷淡に扱う一方、彼の引き渡しを求めるシャルル6世の要求を拒絶、激怒したシャルル6世が遠征に向かうと聞いてイングランドへの再亡命を準備したが、遠征途中の8月にシャルル6世が発狂して遠征が中止されたためジャン4世は命拾いした。対するクリッソンはフランスの保護を受けられなくなり孤立、1395年にジャン4世とクリッソンは改めて和睦した。