ヤン・フス(1)

文字数 1,223文字

今回からヤン・フスについて話題にします。作品集には下の画像から入ってください。
ヤン・フス(1396年頃ー1415年7月6日)はチェコ出身の宗教思想家、宗教改革の先駆者。ジョン・ウィクリフの考えをもとに宗教運動に着手し、ボヘミア王の支持のもとで反教権的な言説を説き、贖宥状を批判し、聖書だけを信仰の根拠とし、プロテスタント運動の先駆者となった。カトリック教会はフスを1411年に破門し、コンスタンツ公会議によって有罪とされた。その後、世俗の権力に引き渡され、杭にかけられて火刑に処された。
この時のボヘミア王というのはもちろん余ヴェンツェルのことである。
ヤン・フスは、ボヘミア地方のプラハの南南西75キロメートルにあるフシツネで生まれた。両親はチェコ人で貧しい生活を送り、フスは教会で奉公して生計を補った。
フスの両親はお金持ちではなくて貧しかったようです。
ボヘミアは神聖ローマ皇帝カール4世の時代に文化的な隆盛を迎え、プラハは独立の大司教区となり、プラハ大学(後のプラハ・カレル大学)が創設された。プラハ大司教や高位聖職者はカール4世の後ろ盾になり、宮廷で行政に携わった。
神聖ローマ皇帝カール4世というのは余の父上である。
余も神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の子であるが、偉大な皇帝の長男というのは人生において失敗することが多い。
1380年代半ば頃には、フスは勉強のためにプラハに赴いた。親友となるが最後には敵対したズノイモのスタニスラフとはこの頃に出会った。1393年には学術学士号を、1394年には論理学士号を、1396年には学術修士号を取った。
順調に学位を取っているので、フスはかなり頭がよかったと思います。
1400年には僧職者に任命され、1401年には哲学部長、翌年にはプラハ大学の学長に任命された。
出世も順調です。
1402年にプラハのベツレヘム礼拝堂の説教者にも指名され、チェコ語で説教を行った。大司教ズビニュク・ザイーツのもとフスは1405年には組織の説教者となった。
この頃までは何も問題ないようです。
1382年にカール4世の息子でローマ王兼ボヘミア王ヴァーツラフ4世の異母妹アンナがイングランド王リチャード2世と結婚し、その影響でウィクリフの哲学書がボヘミアにも行き渡り、広く知られるようになった。ウィクリフの哲学書は1401年から1402年に「プラハのヒエロニムス」により伝えられた。大学は新しい教義の広がりに対し反対の声を上げ、1403年にウィクリフに賛同する55の論文についての議論を禁止した。
ここに出て来るヴァーツラフ4世とはもちろん余ヴェンツェルのことである。
フスは研究者として、特にウィクリフの哲学的現実主義に強く魅了された。その神学理論を知ったことにより、教会改革に向かうフスの性向が覚醒した。フスは聖職者を批判することが増え、大司教は彼に与えた職を解任した。
フスの人生はウィクリフの思想を知ることで大きく変わったようです。
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登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

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