アルマニャック伯ジャン1世(1)
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ジャン1世(1306年/1311年ー1373年)は、ロデーズ伯(在位1313年ー1373年)、アルマニャック伯(在位1319年ー1373年)、シャロレー伯(在位1327年ー1364年)。 ベルナール6世とロデーズ伯アンリ2世の娘セシル・ド・ロデーズの長男。
サン・トメールの戦いは1340年にフランス北部のサン・トメールで起こった、フランス王国軍とイングランド王国、フランドル伯連合軍の戦いで、百年戦争初期のイングランド軍の大規模軍事行動に伴って起きた衝突で、フランス軍が勝利しました。この時の指揮官はブルゴーニュ公ウード4世(無怖公と血のつながりはない)アルマニャック伯ジャン1世でした。戦力はフランスが3000に対してフランドル兵が10000ー15000、イングランド弓兵が1000ででした。
しかし、フィリップ6世から任命されたラングドック国王代行官職を巡ってフォワ伯ガストン3世と対立、1360年に娘ジャンヌを王族のベリー公ジャン1世と結婚させ、代行権を一部ベリー公へ委ねる行為に出た。理由は定かではないが、フランス王家からイングランドおよび略奪兵の脅威を防ぐためラングドック代行官にされたが、ジャン1世は連年の軍事奉仕で疲弊していたためとされる。
ところが、これが裏目に出る。ガストン3世が王家へ抗議してベリー公がラングドックから退去、1362年にはガストン3世との戦いに敗れ捕虜となってしまった。結果、1364年にガストン3世へ多額の賠償金と多くの領土を割譲する羽目になり、ガスコーニュにおける勢威は衰えてしまった。こうした逆境から1360年代にはイングランドへ鞍替えし、賠償金の支払い援助をエドワード黒太子に願い出ている。また、1367年には黒太子に従軍してナヘラの戦いに参戦している。