ティコ・ブラーエ(5)
文字数 1,078文字
ティコとヴィーゼルが1565年にライプツィヒから帰国した時、デンマークはスウェーデンとの戦争の最中であり、ヤアアン・ブラーエはデンマーク艦隊の副提督としてこれに参加して、第一次オーランドの戦いでスウェーデンの撃沈に関わり、国民的英雄となっていた。ティコのデンマーク到着の直後、ヤアアン・ブラーエは1565年4月の戦いで敗れ、すぐ後に高熱で死亡した。これについて、彼がデンマーク王フレゼリク2世と一緒に飲んでいた夜、王がコペンハーゲン運河に落下し、ヤアアン・ブラーエが彼を追って運河に飛び込み肺炎を患ったという物語がある。ヤアアン・ブラーエの資産は妻のインガー・オクセに渡った。彼女はティコに格別の愛情を持っていた。
当時は医学と占星術は深い関係がありました。医者は王侯貴族や高位聖職者の侍医となることも多いので、占星術を学んで健康以外の事でもいろいろとアドバイスをしていたのです。有名なノストラダムスも医者としてフランス王家に仕えていました。
1566年12月29日、ティコは同窓生のデンマーク貴族メンドルプ・パースベアウ(ティコの3番目の従兄弟)との剣による決闘で鼻の一部を失った。12月10のルカス・バックマイスター教授の家で開かれた婚約パーティーでティコとパースベアウは酔っぱらった末に誰が優秀な数学者かについて口論になった。
29日に再び衝突寸前に至ると、彼らはこの対立を暗闇の中の決闘によって解決するという結論に達した。二人は後に和解したが、この決闘の結果、ティコは鼻梁を失い額を横切る大きな傷を負った。大学で彼は可能な限りの治療を受け、その後の人生において付け鼻を装着して過ごすことになった。この付け鼻はコムギペーストまたは糊で接着され銀と金で作られていたと言われていた。2012年11月デンマークとチェコの研究者は、2010年に掘り返された彼の体の部分から採取された小さな骨のサンプルを科学調査し、実際にはティコの付け鼻は真鍮製であったと報告した。