コンスタンツ公会議(2)

文字数 1,306文字

コンスタンツ公会議に話を戻します。作品集には下の画像から入ってください。
ヨハネス23世は自らの正統性がここで確認されることを期待していたが、会議の流れでその望みが果たされないと悟ると支持者の枢機卿たちと共に逃亡を図った。「教皇」を失った公会議はここにおいて崩壊の危機に瀕したが、公会議主義者であった神学者ジャン・ジェルソンらが「教皇さえも公会議の指導に従うべきである」と唱え、会議を主導したことで持ち直した。
この時にもし公会議が中止になっていたら、ウィクリフやフスは異端とされることはなかったのでしょうか?
フェリペよ、そのような考えは危険である。
僕はどうしても納得できないのです。ウィクリフやフスの思想が危険かどうかということよりも、この時に公会議があったから異端にされてしまったのではないかと・・・
そのことについては別にヤン・フスの生涯を調べて話題にしたいと思います。
ここにおいて採択された教令「ヘック・サンクタ」は公会議主義の精神をよく表しているもので、公会議に次の3つの目標を打ち立てた。

1. 教会分裂を収拾する。

2. 教会の改革(いわゆる頭と肢体の改革)を行う。

3. 教会内の異端を一掃する。

この中でコンスタンツ公会議では1と3は実行されましたが2の教会改革は結局行われませんでした。
その後、ヨハネス23世は捕らえられて廃位された。グレゴリウス12世はここに至って、1415年に自ら退位を宣言した。残ったベネディクトゥス13世は退位を拒んだが、1417年に廃位が宣言された。こうして教会大分裂収拾の準備は整った。
ベネディクトゥス13世はアラゴンの大貴族ルナ家出身で、私の弟マルティンの王妃もルナ家出身です。でもカスペの妥協の時はルナ家の血を引く庶子ではなく、カスティーリャ王子をアラゴン王に選んで票を入れ、結局最後は裏切られています。
1417年10月、公会議は画期的な教令「フレクエンス」を採択した。これは公会議を定期的に行うことで、教皇権の暴走に対する抑止力とすること、公会議を以後5年目、さらに7年後、以降は10年ごとに定期的に開催することをうたっていた。
結局これは実行されていません。
1417年11月11日に公会議は枢機卿オド・コロンナを新教皇として選出、彼は当日の聖人マルティンにちなんでマルティヌス5世を名のった。また公会議はウィクリフ、フスの教説を異端思想と判断した。1414年、ウィクリフの遺体は掘り起こされて著書とともに焼かれ、1415年7月6日、自説の撤回を拒んだためフスは世俗権力に引き渡されて焚刑に処せられた。
なぜここまでするのか、僕にはわかりません。
公会議主義はここにおいて頂点に達した感がある。教皇マルティヌス5世も自らを選出した公会議の教令を無視せず、「フレクエンス」の内容を尊重して、次の公会議を招集しようと努力していた。しかし、結果的に教皇権が再び安定したものになると公会議主義の思想は危険なものとみなされるようになっていった。また、公会議の主導による教会の改革は結局行われる事がなく、宗教改革への伏線となっていった。
次回からはヤン・フスの生涯と思想について見ていきます。
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登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

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