エルマンガルド・ダンジュー(5)

文字数 1,161文字

エルマンガルド・ダンジューについての続きです。作品集は下の画像から入ってください。
エルマンガルドと交流を重ねる内に親友となり、1118年の秋にフィリッパが亡くなった後、当にエルマンガルドとギヨーム9世が離婚してから27年もの歳月が経過していたが、ギヨーム9世に復讐するべく、ポワティエに急いで赴き、「ギヨーム9世の破門」、「エルマンガルドへのアキテーヌ公妃の称号返却」、そして「アキテーヌ公居城に住まう愛人の追放」を要求した。
修道院というのは本来は俗世間から離れて静かに神に祈りを捧げる場所です。でもエルマンガルドとフィリッパはギヨーム9世への恨みから意気投合してしまい、ますます復讐心を募らせたように思います。
1119年10月、エルマンガルドは、ランスに滞在した際、ランス教義会に出席し、教皇カリクストゥス2世に自分の主張に対する支持を求めたが、拒否され、エルマンガルドはしばらく要求を主張し続けて騒ぎ、これにはギヨーム9世も困惑した。

そのせいか、ギヨーム9世はエルマンガルドから逃れるようにスペインに渡り、アラゴン王アルフォンス1世に従軍しサラセン人と戦った。

アラゴン王アルフォンソ1世はラミロ2世の兄です。そしてラミロ2世は問題を起こしてアラゴンに逃げて来たギヨーム9世の娘のアニェスと結婚しています。
アラゴン王家にはペドロ2世やハイメ1世など女性にだらしない王が何人もいます。その原因はギヨーム9世の血がアラゴン王家に流れたからですか!
エルマンガルドは夫アラン4世の死後、幼少でブルターニュ公位を継いだ長男コナン3世を支えた後、ラリーにあるシトー会の修道院に入ることを決めた。

1117年、エルマンガルドは故郷アンジューに戻ると、クレルヴォーのベルナルドゥスを崇拝し、ナントの近郊にシトー会の修道院建設を推進したとされる。

以降、50歳程となったエルマンガルドは次男ジョフロワを伴って第2回十字軍に参加し、パレスチナに向かった。

その間、エルマンガルドの異母弟に当たるアンジュー伯フルク5世がエルサレム王となった。

エルマンガルドは当時の女性としてはかなり活動的だと思いました。
一説では、聖地巡礼から10年後、エルマンガルドは故郷アンジューから再びパレスチナに行き、聖アンナ修道院にて天寿を全うしたとする歴史家もいるが、1146年6月1日にルドンのサン=ソヴール修道院で死去したとする死亡記録が残されている。

死亡時期に相違はあるものの、どちらにせよ尼僧として余生を過ごしたとされ、サン=ソヴール修道院で眠る2人目の夫アラン4世の隣に埋葬された。

エルマンガルドは政略結婚の犠牲となった女性のように思ったのですが、かなり激しい気性でしっかり復讐をしていました。次回からギヨーム9世のもう一人の妻フィリッパについて調べてみます。
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登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

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