フィリップ4世(4)
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戦費調達のための教会課税は、教皇至上主義を掲げるローマ教皇ボニファティウス8世との激しい対立をもたらした。敬虔なキリスト教国フランスは教皇庁にとって収入源として重要な地位を占めていたため、教会課税は教皇にとって大きな痛手だったのである。
そのため、ローマは何万という巡礼者であふれかえった。さらにボニファティウス8世派」1302年に「ウナム・サンクタム(唯一聖なる)」という教皇回勅を発し、教皇の権威は他のあらゆる地上の権力に優越すると宣し、さらにフィリップ4世に対し教皇の命に従うよう促した
1302年、フィリップ4世は国内の支持を得るために、聖職者・貴族・市民の3身分からなる「三部会」と呼ばれる議会をパリのノートルダム大聖堂に設け、フランスの国益を宣伝して支持を求めた。人々のフランス人意識は高まり、フィリップ4世は汎ヨーロッパ的な価値観を強要する教皇に対して、国内世論を味方につけた。
1303年、フィリップ4世は、腹心のレジスト(法曹官僚)ギヨーム・ド・ノガレに命じ、教皇の捕縛を謀った。ノガレの両親はかつて異端審問裁判で火刑に処せられていたため復讐に燃えており、教皇の政敵で財産没収と国外追放の刑を受けていたコロンナ家の一族と結託して、ローマ市南東方の教皇離宮所在地のアナーニを襲撃した(アナーニ事件)ノガレとシアラ・コロンナは教皇御座所に侵入し、ボニファティウス8世を「異端者」と面罵して退位を迫り、弾劾の公会議に出席するよう求めた。教皇捕縛には失敗したが、辱められたボニファティウス8世は憤死し、1305年、フィリップ4世は次の教皇にフランス出身のクレメンス5世を擁立した。