オンフロワ4世・ド・トロン(2)
文字数 969文字
1185年にボードゥアン4世が死去すると、彼の幼い甥ボードゥアン5世が即位したが、彼も1186年夏に死去した。エルサレム王国の貴族たちはボードゥアン4世の姉シビーユとその夫ギー・ド・リュジニャンに王国を継承されるのを嫌い、オンフロワとイザベルをエルサレム王にしようとした。しかしオンフロワは即位するのを嫌がって脱走し、シビーユとギーに臣従した。
1187年のヒッティーンの戦いでエルサレム王国軍サラーフッディーンに壊滅させられた時、オンフロワは捕虜となった。母エティエネットは所領のOultrejordainの要塞群と引き換えにオンフロワを解放するようサラーフッディーンと交渉した。ケラク城とモンレアル城の守備兵はアイユーブ朝に降伏するのを拒んだが、サラーフッディーンは咎め立てせずオンフロワを解放した。その上でサラーフッディーンは両城を攻撃し、1188年にケラク城を、1189年前半にモンレアル城を攻略した。
1190年秋に女王シビーユが死去すると、イザベルの継父バリアン・ディブランをはじめとするほとんどのエルサレム王国貴族は、イザベルを有能な軍人であるモンフェッラート侯コンラート1世と結婚させようと考えた。オンフロワとイザベルはこの動きに抗議したが、結局2人の結婚は取り消された。その後オンフロワは1191年から1192年にかけてイングランド王リチャード1世の軍に参じた。アラビア語に堪能だったオンフロワは、リチャード1世の代理として、サラーフッディーンの弟で代理であるアル=アーディルとの交渉に携わった。