カール4世(7)
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金印勅書の発布とほぼ同時期、カール4世は家領の中でも中核をなすボヘミアにおいて、ボヘミア王カレル1世として「マイェスタス・カロリーナ」と称する勅書を発布し、神聖ローマ帝国における金印勅書以上に国内の平和と安寧の保護者としての王権を強く打ち出そうとした。しかし、こちらはボヘミア国内の貴族の反発のため発布できなかった。
金印勅書において世俗選帝侯としてボヘミア王、ライン宮中伯、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯が確定している。これはおおむね規定事項を再確認したものではあったが、ここでハプスブルク家のオーストリア公国とヴィッテルスバッハ家のバイエルン公国という、ボヘミアにとっては二大ライバルにあたる勢力が巧妙に除外されていることに注意を払う必要がある。
え、そんなことしていいのですか?中世はけっこうゆるいですね。でもこのような形で争う方がフリードリヒ2世と教皇との争いよりもずっと穏やかでいいと思います。フリードリヒ2世の子や孫はみんな幽閉されたり殺されたりしていますから・・・
金印勅書発布以降のカール4世は家権拡大政策をいっそう積極的に展開して、王権の基礎の強化に力を注いだ。とりわけ本拠地であるボヘミアの経営に傾注し、ボヘミア王国の領域拡大にも努めている。義父の遺領を継いでオーバーファルツ及びニーダーラウジッツを、アンナ・シフィドニツカとの結婚によってシレジアを併合し、さらにブランデンブルク辺境伯領をバイエルン公オットー5世より購入した。
1365年、カール4世はアルルにおいてブルグント王としての戴冠式を行っている。こうして、カール4世はローマ王、イタリア王、ブルグント王の国王戴冠とローマ皇帝としての戴冠をすべて果たした最後の皇帝となった。同年、アンナに先立たれた後に、ポーランド王家であるピャスト家の血を引くエリーザベト・フォン・ポンメルンと再婚し、ポンメルンやポーランドなど北方への家領拡大の布石とした。