アルフォンソ11世(2)
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フアン・マヌエルはアラゴンと組んでカスティーリャと戦おうと企てるが、1328年、アルフォンソ11世は従妹にあたるポルトガル王アルフォンソ4世の娘マリアと結婚、翌1329年に姉レオノールとアラゴン王アルフォンソ4世の結婚でアラゴンと和睦、後ろ盾を失ったフアン・マヌエルとも和解した。
国内を安定させたアルフォンソ11世はレコンキスタに熱心に取り組み、何度もアンダルシアのイスラム教軍を攻めている。アラゴンと和睦した頃から遠征を始めており、1331年にナスル朝を臣従させた。しかしアフリカのマリーン朝はたびたびナスル朝と手を組んでスペインを脅かすため、アルフォンソ11世は諸国から援助してもらいマリーン朝を打倒することを計画した。
1340年8月、マリーン朝スルタン・アブー・アルハサン・アリーがアルヘシラスに上陸、ナスル朝のユースフ1世と共にタリファを包囲した。直ちにアルフォンソ11世は舅のアルフォンソ4世が率いるポルトガル軍を含めたカスティーリャ軍を連れてタリファ救援に向かい、10月30日にサラードの戦いでイスラム教軍と交戦した。敵はキリスト教軍の3倍以上あったにも関わらず戦いはキリスト教軍の勝利となり、以後マリーン朝の介入は無くなり衰退の一途を辿った。
サラードの戦いの勝利に勢いづいたアルフォンソ11世はナスル朝の国境へ侵攻、1341年にアルカラ・ラ・レアル、プリエゴなどを落とし、1342年8月からアルヘシラスを包囲した。マリーン朝の救援を撃退し包囲を続け、1344年3月にアルヘシラスを降伏させた。
レコンキスタの成功で高まる威信を背景に王国の改革と更なる王権強化に取り組み、曾祖父アルフォンソ10世が編纂した『七部法典』の公布(1348年)、都市の上級役職を占める下級貴族・有力商人と結びつき、彼等の世襲と特権保証を認め都市を間接的に支配するなど、アルフォンソ10世が志していたカスティーリャの法的統合、王権強化を主軸とする改革を実現させた。