ゴドフロワ・ド・ブイヨン(12)
文字数 918文字
タンゴベルトがゴドフロワに対してエルサレムとヤッファの統治権をローマ教皇に移譲するよう強制したと主張するのはギヨームのみであり、アーヘンのアルベルトやラルフ・ド・カーンといった他の当時の歴史家たちは皆、タンゴベルトや彼と同盟していたタンクレード公はゴドフロワに対して忠誠を誓い、彼の息子や血縁者のみがエルサレムの統治者の座を継承するものであると承認していたと記述しているからだ。
なんにしろ、タンゴベルトの企ては結局水泡に帰した。ゴドフロワが亡くなった際、タンゴベルトはヤッファにおり、当のエルサレムはゴドフロワの家臣により占領され、ゴドフロワの弟ボードゥアンがエルサレム王位を継承すべきだと主張したため、タンゴベルトにはなす術がなかった。タンゴベルト総主教は1100年12月25日、エデッサより馳せ参じたボードゥアンをエルサレム王として認め、自ら彼を戴冠するよう強制され、ボードゥアンはボードゥアン1世としてエルサレム王に即位した。
当時のアラブ人歴史家イブン・アル・カラニシはゴドフロワは1099年にアッコの城壁を攻撃中に矢を射かけられ、その傷が原因で戦死したと主張しており、ムスリム側の文献の多くにこの主張が記載されている。しかしキリスト教徒側の文献にはゴドフロワが戦死したとする記述が一切残っていない。アーヘンのアルベルトやエッケハルト修道院長の文献によると、1100年6月、ゴドフロワはカイサリアを訪問中に体調を崩し、7月18日にエルサレムで崩御したとされている。