クレルヴォーのベルナルドゥス(3)
文字数 1,003文字
1129年、アルバーノのマテウス枢機卿の招きでトロワの司教会議に参加したベルナルドゥスは、そこでテンプル騎士団の認可が得られるように働きかけ、シャロンの司教会議ではヴェルダン司教アンリの問題を司教辞任という形で決着させることに成功し、教会政治における手腕でも高い評価を得た。
しかし教会において、ベルナルドゥスの評価が決定的になるのはむしろ、その後起こった教会分裂騒動の収拾においてであった。それは1130年に教皇ホノリウス2世が亡くなり、教皇選挙が紛糾したことに端を発している。後継にえらばれたインノケンティウス2世に対して対立教皇アナクレトゥス2世が立つという事態になり、ルイ6世(肥満王)が1130年にエタンに司教会議を招集、事態の打開を目指した。そこにおいてベルナルドゥスは、インノケンティウス2世の強力な擁護者となり、多くの論戦を戦った。
ローマにはすでにフランスやイギリス、スペインなど各国の支持を取り付けたアナクレトゥス2世が居座っており、インノケンティウス2世は各地の放浪を余儀なくされていたが、ベルナルドゥスはこれを逆手にとり、インノケンティウスこそ「世界に受け入れられた教皇である」と主張した。ベルナルドゥスは教皇からの使命を受け各地を旅行した。ミラノでは高官や聖職者たちがミラノの大司教に着任することを願ったが、ベルナルドゥスはクレルヴォー修道院に戻った。そこから神聖ローマ皇帝ロタール3世との議論のためにリエージュに向かった。