フランス王ルイ7世(15)
文字数 1,023文字
アンジュー帝国へ対抗するため外交で手腕を発揮、プランタジネット朝の家族仲の悪さを利用して内乱を煽った。1152年の戦争ではヘンリー2世・ジョフロワ兄弟の対立に便乗して出兵、1159年のヘンリー2世のトゥールーズ伯領遠征では宗主権を活用、大陸ではヘンリー2世が自分の臣下である関係を利用して妨害した。1173年の戦争では父子の不仲に付け込んで対立に介入し、1169年の会見でヘンリー2世の3人の息子たちと臣従の誓いを交わしたことを利用、元妻アリエノールと若ヘンリー王、リチャード、ジェフリーを味方につけ、フランス諸侯やスコットランドなども加えてヘンリー2世を包囲した。しかし、軍事では十字軍以後精彩を欠き、しばしばヘンリー2世に敗れ好機を逃し、1173年の戦争でも勝てなかったため、最終的にヘンリー2世と和睦せざるを得なかった。
フランス王国最初の王令を発布し、王室の修史事業の発端が始められるのもルイ7世の治世であった。「ルイ7世には武人としても政治家としても非凡なところは何もなかった。そのような君主のもとでの王権の増大は、ますます特徴的である」というのは歴史家アンリ・ピレンヌの評価である。
イングランドの作家ウォルター・マップとの対話で語った次の言葉はルイ7世の素朴さと単純さを表している。「インド諸国の王は宝石、ライオン、ヒョウ、象に取り囲まれて暮らす富裕な王だ。ビザンツ帝国皇帝とシチリア王の誇りは、金と絹の衣装だ。そなたの主人イングランド王には、欠ける物は何一つ無い。それに引き換えフランス王といえば、持ち物はパンと葡萄畑とささやかなお祭り騒ぎぐらいなものだ」。ルイ7世の姿勢は当時の歴史家に好意を持たれ、ウォルター・マップはルイ7世の謙虚ながらも裁判に厳格な姿勢を評価、イングランドの歴史家ウィリアム・オブ・ニューバラもルイ7世の騙され易い単純さを指摘しつつも敬虔さと優しさを称賛している。