ブルゴーニュ公シャルル(3)
文字数 1,243文字
1471年からは軍の配置を説明する勅令が毎年出されている。そしてシャルルは異なる兵科を組み合わせて、それぞれが別の兵を支援できるように編成した。このため槍兵は弓兵と組み合わせて手銃兵に支援され、騎乗弓兵は騎兵とともに行動して、突撃して射るという攻撃が可能になった。
また、1453年のカスティヨンの戦いを参考に、効果的な野戦砲の開発を支援した結果、ファルコン砲と呼ばれる車輪付きの砲身の長い砲を大量に導入することに成功した。シャルルの構想した軍隊は150年後のテルシオや、マウリッツ・ファン・ナッサウ、スウェーデン王グスタフ2世アドルフの軍制に先駆けるものであったが、複雑な諸兵科連合と野戦砲の組み合わせは軍の完全な協調が求められることなど、この時代の情報・通信技術や兵站などの基礎的なインフラの限界もあって、実際の運用には障害となる問題が多かった。さらに長大なパイクで武装した1万から2万人を数えるスイス傭兵の大規模な隊列に対抗できるほどの、槍兵は持たなかったことがシャルル軍の致命的な弱点となった。
シャルルは公位継承以前に2度、継承後に1度、合わせて3度結婚した。
最初の妻はフランス王シャルル7世の娘カトリーヌ(1428年ー1446年)1440年に結婚したが、子をもうけることなく若くして死去した。
2番目の妻はブルボン公シャルル1世の娘で従妹(母アニュスがフィリップ善良公の妹)に当たるイザベル(1436年ー1465年)1454年に結婚し、1457年にシャルルの唯一の子となるマリーを生んだ後、若くして死去した。