ヘンリー1世(4)
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ヘンリー1世は有能な支配者で、即位すると大憲章(マグナ・カルタ)の祖とも言われる戴冠憲章を定め、巡回裁判を広く行い「公正の獅子」と呼ばれるように領内を良く治めたとされる。また、彼の学究的な態度からボクレール(碩学王)のあだ名を持つ。
良く治めたという評価は、兄の急死を受けて即位した彼の立場の弱さが、大貴族に対する妥協を生んだ結果、彼等と対立しなかった(むしろ対決できなかった)だけであり、議会重視の立場を取る歴史家たちの評価である(逆に大貴族と対立することが専制の証となり無能の烙印を押されがちである)
戴冠憲章は契約ではなく政治綱領だが、ヘンリー1世は恣意的な権力に侵されない国民の権利を保証、先代ウィリアム2世の悪弊(教会や俗人からの様々な徴税による収入増加)を正すことを誓い、聖職売買(シモニア)や不当徴税を止めること、エドワード懺悔王時代の法の復活・遵守を宣言した。またイングランド・ノルマンディーとイギリス海峡の両岸を押さえたことにより、イングランドを不在にすることが多くなり、王不在のイングランドを統治するための行政機構を整備した。
王の支出管理組織として宮廷財務室と文書作成組織の尚書部と長官たる尚書部長官(大法官)、王の財産・機密文書などを管理する宝蔵室を拡充、収入管理組織としてイクスチェッカー(財務省の原型)が地方財政を担当しただけでなく、国王不在時の行政の最高責任者である最高法官が管轄に置いて行政・財政・司法を担当、国王の長期不在には最高法官と尚書部長菅、宝蔵室長官が代理統治する体制を作った。裁判組織であるキュリア・レジスに常任裁判官も加え、この組織や王に代わる裁判担当と最高法官の補佐の役目を与え、地方を巡回して王領の経営状況を調査、住民訴訟も扱う巡回裁判も定期化させた。こうした基盤固めに成功したおかげでイングランドは安定、1106年以降治世の半分をノルマンディーで過ごせるようになった。