ティコ・ブラーエ(18)
文字数 949文字
ティコの忍耐の限界を超える最後の一押しは、恐らくは彼の宮廷内の敵に扇動された平民の群衆がコペンハーゲンの自宅前で暴動を起こしたことであった。ティコ・ブラーエは1597年にヴェン島を去りコペンハーゲンにいくつかの観測器具を運んだ。そして残りを島の管理人に委ねた。島を去る直前、彼は1.000個の恒星の位置を記録した星表を完成させていた。王の好意を取り戻そうとするいくつかの試みが失敗に終わった後、遂に彼は諦めて亡命することを決め、自身の才能を認めなかったデンマークを穏やかに批判した『Elegy to Dania(デンマークへの哀歌)』を書いた。これは彼が残した中で最も有名な詩である。
「デンマークよ、私の罪とは何なのか?何故なのか。
祖国よ、私はあなたの怒りを買ったのか?
あなたは私の所業を悪だとお考えか。
だがあなたの威名を諸国に広めたことは悪であるのか?
どうか教えて欲しい、私より前に誰がこれを為したというのか?
誰があの遥かな星々へ向けてあなたの名誉を歌ったというのか?」
ティコ・ブラーエの『Elegy to Dania』より抜粋
ウラニボリとスターニボリで彼が使っていた観測器具は、1598年に初めて出版された著書『Astronomiae instauratae mechanica (天文学再興のための機器)』の中で詳細に図示され説明されている。クリスチャン4世はティコ・ブラーエが残していった観測器具を記録するためにヴェン島に2名の使者を送った。天文学に精通していなかったこの使者たちはティコの巨大な象限儀や六分儀のような大型の機械装置を「有害無益」だと報告した。
1597年から1598年にかけて、彼はハンブルク郊外のヴァンデスブルクにある友人のハインリヒ・ランツァウの城で過ごした。彼らはその後しばらくの間ウィッテンベルクにあったかつてのフィリップ・メランヒトンの家で過ごした。