ウィリアム2世(6)
文字数 1,256文字
1086年に父親ウィリアム1世によって編纂された土地台帳ドゥームズデイ・ブックに記載されているアングロ・ノルマン人の入植地を継承した。このドゥームズデイ・ブックは主に徴税体制を整えるためにウィリアム1世の指導のもとで編纂された台帳であり、イングランド統治の模範例とされている。そしてウィリアム赤顔王は非常に強引にノルマン諸侯らの領地を併合していった。1095年には、ウィリアム王が開催した王の御前会議への出席を拒んだノーサンブリア伯ロベール・ド・モンブレーを討伐し、領土と爵位を剝奪し収監した。またウィリアム王に対する謀反の疑いをもたれていたウー伯ギヨーム2世に対しても、失明させた上に去勢を施すという厳罰を施したとされる。
イングランドの歴史は世界の歴史に大きな影響を与えているので、古い時代でも研究が進み、日本語で読めるものもたくさんあると思います。ただ日本人は私も含めこの時代について詳しく知っている人はほとんどいないです。
対外関係においては、ウィリアム王の政策は成功をおさめた。1091年には、イングランド王国に攻め寄せるスコットランド王マルカム3世を迎え撃ち、イングランド王に対し従属するよう強制した。1092年にはカーライル城を建築し、カンバーランド地方やウェストモーランド地方を支配下に置いた。その後、両王はマルカム王がイングランド王国内に有する領地の処断を巡り口論し、マルカム王は再びイングランド王国に侵攻しノーサンブリアを略奪した。しかし1093年11月13日、アニックの戦いでマルカム3世率いるスコットランド軍はノルマン軍の奇襲を受けて大敗し、マルカム王と息子のエドワード王子は戦死した。そしてマルカム王の兄弟であるドナルド3世がスコットランド王位に即位した。ウィリアム王はマルカム王の息子ダンカン2世を支援しスコットランド王に就任させた。しかしダンカン2世のイングランド王国への臣従政策はスコットランド諸侯の反発を受け、即位後すぐにダンカン王は暗殺された。ウィリアム王はその後、マルカム王の息子エドガーを支援した。エドガーは1094年、エドガー・アシリング(ウェセックス家最後の男子王族。当時はノルマン朝に仕えていた)率いるイングランド援軍の軍事力をもってロージアン地方を占領し、1097年にはドナルド3世を追放してスコットランド王に即位した。エドガー王はロージアン地方におけるウィリアム王の宗主権を認め、イングランド王宮にも出仕するようになったという。
ウィリアム王は1097年には2度ウェールズにも侵攻したという。これらの侵攻で決定的な結果は得られなかったものの、ウェールズ近郊の辺境地方に一連の防衛設備を整えて多くの城を建設した。