ジャン・ジェルソン(3)
文字数 1,482文字
ここでは公会議の権威の教皇権に対する優越を確認したことで知られ、それがそのままジェルソンの思想と同義に見られがちであるが、彼の著作を注意深く読めば、ジェルソンが「公会議の教皇権への優位は、教会分裂などの非常事態に限定される」と考えていることがわかる。ジェルソンはそこまで徹底した教会改革は志向してはいなかった。彼のものとされてきた教会改革に関する主要な著作も、研究者によってランドルフのアンドレアスらの手によるものだということがわかっている。
皮肉なことに、ジェルソンの名を不朽のものとしたこの公会議によってジェルソンは没落することになる。それはジャン・プティへの弾劾が黒幕のブルゴーニュ公の圧力で却下されたことによる。公会議はプティの問題は道徳に関することで、教義に関することではないため、弾劾に及ばないと結論したのである。
ジェルソンはもはやフランスに戻るつもりはなかった。敵対するブルゴーニュ公が国内においてその権威を増していたからでもある。彼はコンスタンツ、ラッテンベルクといった都市に滞在して『神学のなぐさめ』などの書を執筆した。
年老いたジェルソンは故国フランスへ戻ろうと思い、弟が修道院長をしていたリヨンにやってきた。伝承では子供たちに勉強を教えていたという。そのジェルソンが求めたのは自分の魂の救いのために短い祈りをしてほしいということだったとされている。晩年のジェルソンは神秘神学に関する信心書を執筆していた。長い間、この時期ジェルソンが書いた信心書こそが、トマス・ア・ケンピスの名をつけられた『キリストにならう』だったと言われていたが、研究の結果、実際にトマス・ア・ケンピスのものだということがわかっている。
ジャン・ジェルソンは1429年7月12日にリヨンで死去した。