ジャン・ジェルソン(3)

文字数 1,482文字

ジャン・ジェルソンについての続きです。作品集には下の画像から入ってください。
ジェルソンの熱意はついに皇帝ジギスムントを動かした。ここにおいて歴史にその名を残すコンスタンツ公会議が開かれた。
ジギスムントは余の異母弟である。
コンスタンツ公会議が行われたのは教皇や皇帝、各国の王の力ではなく、神学者でパリ大学総長のジャン・ジェルソンの粘り強い働きかけがあったからですね。
この公会議では、3人の教皇たちの処遇とフス派への対応について話し合われた。最終的に公会議は3人の教皇を廃位、あるいは退位させて新教皇を立てることで分裂に終止符を打つことに成功した。
コンスタンツ公会議は教会大分裂を終わらせるという目的においては成功しています。
ここでは公会議の権威の教皇権に対する優越を確認したことで知られ、それがそのままジェルソンの思想と同義に見られがちであるが、彼の著作を注意深く読めば、ジェルソンが「公会議の教皇権への優位は、教会分裂などの非常事態に限定される」と考えていることがわかる。ジェルソンはそこまで徹底した教会改革は志向してはいなかった。彼のものとされてきた教会改革に関する主要な著作も、研究者によってランドルフのアンドレアスらの手によるものだということがわかっている。
公会議を成功させたことで、本人の考え以上に教会改革を進めようとしていたと誤解されることもあるのですね。
皮肉なことに、ジェルソンの名を不朽のものとしたこの公会議によってジェルソンは没落することになる。それはジャン・プティへの弾劾が黒幕のブルゴーニュ公の圧力で却下されたことによる。公会議はプティの問題は道徳に関することで、教義に関することではないため、弾劾に及ばないと結論したのである。
酷い話ですね。
私の義理の孫シャルル7世の敵ブルゴーニュ公がのさばっていたため、フランスは大変なことになります。
ジェルソンはもはやフランスに戻るつもりはなかった。敵対するブルゴーニュ公が国内においてその権威を増していたからでもある。彼はコンスタンツ、ラッテンベルクといった都市に滞在して『神学のなぐさめ』などの書を執筆した。
本当に酷い話です。ジェルソンは正しいことを言っているのに、黒幕の圧力でうやむやにされ、フランスに帰れなくなっています。
年老いたジェルソンは故国フランスへ戻ろうと思い、弟が修道院長をしていたリヨンにやってきた。伝承では子供たちに勉強を教えていたという。そのジェルソンが求めたのは自分の魂の救いのために短い祈りをしてほしいということだったとされている。晩年のジェルソンは神秘神学に関する信心書を執筆していた。長い間、この時期ジェルソンが書いた信心書こそが、トマス・ア・ケンピスの名をつけられた『キリストにならう』だったと言われていたが、研究の結果、実際にトマス・ア・ケンピスのものだということがわかっている。

ジャン・ジェルソンは1429年7月12日にリヨンで死去した。

ブルゴーニュ公ジャン1世は1419年にシャルル王太子の支持者によって暗殺されていますし、シャルル7世は1422年に即位しています。ジェルソンはパリに戻ろうとは思わなかったのでしょうか?
シャルル7世が即位したといっても、フランスでの戦いはまだ続いていました。1429年にジャンヌ・ダルクの活躍があり、1431年にジャンヌの火刑、その後もシャルル7世とイングランドの戦いは続き、1453年のカスティヨンの戦いでようやく百年戦争が終わりになっています。そしてジェルソンはもう争いに巻き込まれるのはこりごりだと思ったのではないでしょうか?
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登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

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