ピエール・ガッサンディ(1)
文字数 914文字
プロヴァンス地方でディーニュ=レ=近郊シャンテルシェで貧しい農夫の子として生まれ、ディーニュ大学に聴講し、言語学と数学に才能を示す。エクサンプロヴァンス大学で哲学を学び、16歳で修辞学の教師となり、3年後に神学と哲学の教授となった。
翌年の1612年に神学を講義するためにディーニュ大学に招聘され、1616年にアヴィニョンで神学の学位を授与された翌年に僧職に就いた。同年、エクサンプロヴァンス大学で哲学教授となり、徐々に神学研究から遠のくことになる。1628年から1633年までフランドルとオランダへ旅行。1633年に元老院議員のベイレスシウスに推挙され、聖堂参事会員となりディーニュ聖堂学院の学長となる。1645年にパリのコレージュ・ロアイヤルの数学教授となり、1648年に体調を崩すまで講義を行った。パリで没する。
青年時代のガッサンディは、懐疑論者シャロンなどの影響によりアリストテレスの権威から解き放たれ、スコラ学者が解釈した揶揄攻撃するパンフレットを書いて一部を出版し、その激しさを懸念した友人の忠告により5巻分は焼却した。
ガッサンディの批判は、自らの唯物論を教会の教理に順応させたデカルトにも向けられた。感覚から与えられる印象を疑った「デカルト的懐疑」を観念の遊戯と考え、「存在は思惟によってのみ認められる」とするデカルトに対し、「存在は、まさしく思惟からと同様に、他のいかなる作用からも推測することができる」と反論した。