第4代モートン伯爵ジェイムズ・ダグラス(2)
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宗教政策では監督制復活をはじめとするプロテスタント推進政策をとったが、ジョン・ノックスらが主張する長老派による聖職者任命制の導入の提案は却下し、「教会の長は国王」との立場を堅持して司教任命権を国王に温存させた。これはモートン伯がいつの日かジェームズ6世はイングランド王位も継ぐだろうと確信していたためという。そのためにはイングランド式王権のもとに司教を置く体制を作り、またイングランドとの同盟関係を維持する必要があった。
しかし彼の強権的統治は反発を招き、特にカトリック貴族からは憎まれた。少年王ジェームズ6世もモートン伯を嫌っていた。そうした空気の中で1578年には第6代アーガイル伯爵コリン・キャンベルにより摂政解任に追い込まれた。
摂政解任後も実権を握ったが、カトリックのレノックス伯エズメ・ステュワートの奸計により、王配ダーンリー卿ヘンリーステュワート暗殺の罪を着せられ、1581年6月2日にスコッチ・メイデン(ギロチン)で処刑された。皮肉にもこの断頭台はモートン伯がイングランドから輸入したものだった。
子供はなかった。1581年11月29日には3代モートン伯の娘婿にあたる第8代マクスウェル卿ジョン・マクスウェルが新規にモートン伯爵に叙せられているが、1586年1月29日には4代モートン伯の甥にあたる8代アンガス伯アーチボルト・ダグラスに第5代モートン伯爵位の継承が認められた。