ボードゥアン3世(7)

文字数 1,271文字

ボードゥアン3世についての続きです。作品集は下の画像から入ってください。
ボードゥアン3世はエルサレム王国をある程度復興させたことにより、ビザンツ帝国王族との婚姻関係を要求できるほどまでに名声を集めた。1157年には、オンフロワ2世をビザンツ皇帝マヌエル1世コムネノスのもとに交渉のため派遣し、この交渉でボードゥアン3世とテオドラ・コムネナ(マヌエル1世の姪)の結婚が取り決められ、この婚姻関係を通じてビザンツ帝国とエルサレム王国は同盟を締結した。この同盟はエルサレム王国よりもビザンツ帝国に対して利の多い同盟であった。この同盟において、ボードゥアンはアンティオキアにおいてビザンツ帝国の宗主権を認め、またボードゥアンが先に亡くなりテオドラが未亡人となった場合にはアッコの支配権が彼女に委譲されるという条件を承認したという。両国間の同盟締結に一役買ったテオドラであったが、彼女はアッコ市街でしか権威を主張することができず、アッコ市外ではなんの権威も有しなかったとされる。両者の結婚式は1158年9月に挙げられた。この時、ボードゥアンは28歳でテオドラは13歳であった。
テオドラとの結婚の交渉でエルサレム王国はビザンツ帝国と同盟を結ぶことができましたが、ボードゥアン3世とテオドラはかなり年が離れていて、このことが2人の間に後継者が生まれなくて弟のアモーリーが王位を継ぐことになる原因となったようにも思いました。
両国間の関係は次第に良好なものとなっていき、1159年にはボードゥアン3世とマヌエル1世はアンティオキアで面会を遂げた。2人は良き友人となり、マヌエル1世はエルサレム王国からもたらされた西ヨーロッパ様式の服装や伝統を帝国に取り入れて、また馬上槍試合に参加してボードゥアンと一戦を交えたこともあったという。またこの時、ボードゥアンは馬から振り落とされて怪我をしたとされるが、マヌエル1世は個人的にボードゥアンを手当したという。
ビザンツ帝国は西ヨーロッパとは離れた位置にあるので文化や風習などは独自に発展し、それがエルサレム王国のボードゥアン3世と親しくなることで文化の交流が生まれたのですね。
その後、アンティオキア公ルノーがムスリムとの戦いに敗れ捕虜に取られた際、ボードゥアンは摂政として再び公国を統治したが、この行為によりビザンツ皇帝マヌエルの気を害してしまうこととなった。マヌエル1世は先の同盟でアンティオキアにおける宗主権をボードゥアンに承認させていたにもかかわらず、ボードゥアンが構わず自らアンティオキアの統治を推し進めたからである。この行為に対抗して、1160年にマヌエル1世はボードゥアンの従姉妹でアンティオキア女公のマリー・ダンティオケと結婚し、アンティオキア公国との関係強化に努めた。この際、ボードゥアンは別の従姉妹メリザンド・オブ・トリポリとの結婚を提案していたという。アンティオキアが独自にビザンツ帝国と関係を深めるのを防ぐためであったとされる。
エルサレム王国とビザンツ帝国の関係も思っていた以上に複雑で驚きました。
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登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

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