ブルゴーニュ公フィリップ3世(2)
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ヘンリー5世は1420年、トロワ条約のすぐ後にシャルル6世の娘カトリーヌと結婚しましたが、1422年の8月31日にモー包囲戦の時に感染した赤痢によって崩御しました。34歳でした。シャルル6世は同じ年の10月21日に崩御、54歳で病死でした。
翌1423年には政略結婚で両国の関係は強化され、善良公の妹アンヌと姉マルグリット(ルイ亡き後未亡人になっていた)はそれぞれヘンリー6世の叔父ベッドフォード公ジョンとブルターニュ公ジャン5世の弟アルテュール・ド・リッシュモンに嫁いだ。
アルテュール・ド・リッシュモンはブルゴーニュ公に育てられ、母がイングランド王ヘンリー4世と再婚して、さらにブルゴーニュ公フィリップ3世の姉マルグリットと結婚までしている。これだけイングランドとブルゴーニュ一族に囲まれていながら、なぜアルマニャック派のシャルル7世の大元帥になったのか、不思議です。
だが、善良公はフランス戦線に無関心で、北のネーデルラント獲得を目指していたが、そのネーデルラントを巡り紛争が起こった。ベッドフォード公の弟のグロスター公ハンフリーが1422年に善良公の従妹に当たるエノー・ホラント・ゼーラント女伯ジャクリーヌ・ド・エノーと結婚したことを根拠に1424年にネーデルラントへ出兵したため、憤慨した善良公は迎撃に向かい、イングランドとブルゴーニュの同盟にヒビが入った。
事態を危ぶんだベッドフォード公が仲介したが紛争は収まらず、翌1425年1月にジャクリーヌと善良公の叔父でジャクリーヌと対立していたバイエルン公ヨハン3世が善良公を相続人に指名して亡くなると、それを口実に善良公はエノーに駐屯していたグロスター公の手勢を打ち破りジャクリーヌを捕えてネーデルランドで優位に立った。
1428年にグロスター公が介入を諦め、ジャクリーヌが善良公に3伯領の支配を委ねることで事態は解決したが、善良公はイングランドに不信を抱くようになった。この後、1432年にジャクリーヌが善良公へ反逆を企て、それが失敗に終わると3伯領を全て明け渡して引退、1430年に従弟のブラバント公兼サン=ポル伯フィリップ(ジャン4世の弟)が急死したことも相まって、ネーデルラントの大部分を手に入れた善良公の所領は大幅に拡大した。