占星術と天文学
文字数 1,730文字
ミゲル・セルベートに関するエッセイの中で、占星術を巡ってのトラブルと彼が占星術に対してどのように考えていたかを書きました。ここではさらに次の時代に進み、占星術と天文学について話題にします。作品のページは下の肖像画から入ってください。
天文学の話をするにあたって、天動説と地動説についても説明しなければなりません。ポーランド出身の天文学者コペルニクス(1473ー1543)が『天球の回転について』(1543年)という本で天動説を覆す地動説を唱えました。
現代では当たり前になっている説ですが、当時地動説はなかなか受け入れられませんでした。コペルニクスはボローニャで法律を学んだ後、パドヴァ大学で医学を学び(1501年)この時に医療では必須科目だった占星術も学んでいます。そして余暇で天体観測も行い、1510年頃には地動説の着想も得て、1529年頃には地動説についてまとめ始めましたが、実際に出版を考えたのは死の直前でした。
コペルニクスの本は死後多くの人が読み、影響を与えています。ジョルダーノ・ブルーノ(1548ー1600)という人は宇宙論をさらに広げて『無限・宇宙・諸世界について』という本を書いています。この本や地動説を支持したことだけが原因でなくても、異端の理由に加えられ、1600年に火刑となっています。
ジョルダーノ・ブルーノが捕らえられたのがヴェネツィアで処刑されたのはローマ、ガリレオ・ガリレイもイタリア人だったので、カトリックの国の方が新しい説に厳しかったのかもしれません。またティコ・ブラーエの研究は占星術と結びついていたので、そうした知識が欲しくて研究を支援したのだと思います。
でもティコ・ブラーエは国王の世代交代で王と不仲になり、1599年に神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の宮廷に招かれています。ルドルフ2世(1552ー1612)は政治的には優柔不断で跡継ぎも残さず、晩年に王位も弟に譲っていますが、たくさんの芸術家や学者を宮廷に集めたことで有名です。
ルドルフ2世の宮廷でティコ・ブラーエとケプラーが出会います。ケプラー(1571ー1630)はティコ・ブラーエの死後天体観測の資料を全て引継ぎ、1609年に『新天文学』を出版し、その中に有名な『ケプラーの法則』も含まれていました。
ケプラーはかなり幸運ですね。ちょうどいい時代、国に生まれて異端審問に引っかからず、ルドルフ2世のいるプラハでティコ・ブラーエの助手となり、天体観測の資料を全部受け継ぐことになる。神が運を与えてくれているようにも見えます。