フランス王ルイ6世(7)
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しかし最終的には、1114年にロシュフォール伯ギー2世とユーグ・ド・クレシー父子をグルネー城に幽閉し、服従させたルイが勝利した。こうしてモンレリ家は滅亡し、モンレリ家の財産は王家に分割された。ルイはモンレリ、ゴメッツ、シャトー=フォールを王領とし、ロシュフォール伯領は自分の忠臣アンソー・ド・ガルランドに分け与え、グルネーは五男の王子ロベールに、ブレイ=シュル=セーヌはブロワ伯ティボー4世に、クレシー=アン=ブリーはシャティヨン家に、それぞれ補償として与えた。ユーグ・ド・クレシーはクリュニー修道院に修道僧として入った。
1118年、ルイの攻撃を受けた際、ル・ピュイゼ領主ユーグ3世は自分の大叔父にあたるアンソーを殺害した後、再び反乱を起こしたが、ユーグ3世も降伏を余儀なくされた。その後、ル・ピュイゼ領主ユーグ3世はパレスチナに亡命し、そこで亡くなった。
さらに、諸侯の統率は今ひとつまとまっていなかったため、時のローマ皇帝ハインリヒ5世の侵攻を受ける。フランスは危機に陥ったが、シュジェールは聖ドニの軍旗である「オリフラム」を掲げることで、信仰心ということからフランスの諸侯を参集させてまとめ上げ、これを撃退することに成功した。また、シュジェール主導のもと、修道院改革なども行われる。
1137年、2番目の妻アデル・ド・サヴォワとの間の次男で、早世した長男フィリップに代わって1131年から共同王位についていたルイ7世と南フランスに広大な領土を占めるアキテーヌ公領の相続人エレアノールとの婚姻を決めた後、赤痢に感染しベティシー=サン=ピエールにて崩御した。