フルク5世(4)
文字数 946文字
1120年頃にエルサレム巡礼に出かけ、十字軍に参加したフルク5世はテンプル騎士団と共に聖地の守備に当たった。それから8年後の1128年にエルサレム王ボードゥアン2世が長女メリザンドの夫を求めてフランスに使者を派遣、1120年の巡礼で十字軍国家の貴族たちと親しくなったこと、ノルマンディー・フランス双方にも一目置かれるほどの強大な領地と軍事的名声が決め手となり、ルイ6世の推薦でフルク5世に決まった。
フルク5世は巡礼に行ったことで、精神的な心の安定だけでなく、実質的にエルサレム王という地位まで得ています。ロベール2世が十字軍に参加するも領土を手に入れることはできず、帰国した時には弟のヘンリー1世がイングランド王位を手に入れ、ヘンリー1世との争いに敗れて目を潰されて幽閉され不幸な人生を送ったのとはずいぶん違います。ロベール2世の子ギヨーム・クリトンもヘンリー1世から命を狙われ続け、戦いの人生で結局戦死しています。ヘンリー1世は身内に対しては残酷ですが、他の諸侯に対しては徹底的に争わずに和睦して政略結婚も許している、それを利用してフルク5世は結果ヘンリー2世の祖父になるという幸運を得ています。そしてさらにエルサレム王にもなる、なんか運が良すぎてモヤモヤします。
1126年に先妻を亡くしていたフルク5世は承諾、ジョフロワの結婚を済ませ、1129年にアンジュー伯領をジョフロワに譲り、エルサレムに旅立ち現地でメリザンドと再婚した。2年後の1131年にボードゥアン2世が亡くなった後、夫婦両王としてエルサレムを共同統治した。