ティコ・ブラーエ(2)
文字数 870文字
デンマーク王フレゼリク2世はティコにヴェン島の邸宅を下賜し、ウラニボリに最初の天文台を建設するための資金を提供した。ティコはこの地に巨大な天文台を建設して数多くの精密な観測を行い、ウラニボリでの観測が十分な精度ではないことに気付いた後はスターニボリ(「星の城」の意)の地下で観測を行った。ヴェン島(この地で彼は現地住民に横暴に振舞った)では製紙工場など、観測結果を印刷するための素材を作るための工場も設立した。
デンマーク王位がクリスチャン4世に移った後、1597年にこの新王との不和によりティコは追放され、その後ボヘミア王兼神聖ローマ皇帝ルドルフ2世によってプラハに招聘され、帝室付の天文学者となった。彼はベナーツキ・ナド・イゼロウに天文台を建設し、1600年から死亡する1601年までヨハネス・ケプラーの補佐を受けて観測と研究を続けた。ケプラーは後にティコの天文観測データーを使用してケプラーの法則を発見した。
ティコは若年期の決闘によって鼻梁を失い付け鼻をしていた。この付け鼻は銀や作られたものであるという噂が後世に広まった。また、ティコがいとこのイーレク・ブラーエ、あるいは助手のケプラーによって毒殺されたという説も近年になって広まった。これらを調査するため、ティコの遺体は1901年と2010年の2回掘り返され、彼の死にまつわる状況と付け鼻の素材を特定するための調査が行われた。結論として、ティコの死は毒によるものではなく膀胱の破裂によるものであろうことが示され、また付け鼻は幾人かの人々が信じていたような銀や金ではなく、真鍮によって作られたものである可能性が高いことが明らかになった。