エメリー・ド・リュジニャン(2)
文字数 871文字
翌1198年、トリポリ伯レーモン3世の継子ティベリアスのラウルが王の暗殺を計画したとして領地没収を宣告したところ、ラウルが王によってではなく最高法院による裁きを求めて反抗、これに他の貴族たちも同調し王に反抗したため、エメリーはラウルを国外追放にしている。このころよりエルサレム王国では、法律の知識を持つ貴族が王に反抗する図式が出来上がっていったとされる。王としてのエメリーは法律に関する深い知識を持っていたことで評価されており、また、キプロス島の実質的な建設者であったとされている。また、アイユーブ朝のスルタンアル=アーディルとの間の休戦協定も継続させた。
1205年4月1日にエメリーは死去した。魚にあたったともいわれている。キプロス王位は最初の妻との間の息子ユーグ1世が継承した。妃でエルサレム女王のイザベルもエメリーの死から4日後に死去し、エルサレム王位はイザベルとモンフェラート侯コンラートとの間の娘マリーアが継承し、キプロス王位とエルサレム王位は再び別々に継承されることとなった。
フリードリヒ2世はハインリヒ7世の父です。離れて暮らす父が再婚してエルサレム王国の継承権を持つ異母弟が生まれたということが、ハインリヒ7世を苦しめ、やがて父と対立して反乱を起こすようになったのではないかとも思いました。