スコットランド王ロバート1世(16)
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ペドロ2世の場合はカタリ派に味方して破門されたすぐ後に戦死したから教会の決まった場所に埋葬されることも許されず、教皇が変わってあらためて修道院内の決まった場所に埋葬されたのです。子孫にとってはかなり迷惑な人です。
1818年2月17日、ダンファームリン修道院の東側に聖歌隊のための敷地を作るため、新たな教区の教会を壊していた作業員が、かつての修道院の祭壇の前にある墓を開けた。墓は墓石と6フィート(182cm)以上もある大きな石の2つの大きな石で守られていた。これらの石を移動させると、作業員はオーク製の柩の中に薄い鉛からなる二つの層によってすっぽり包まれており、金の衣類でできた経帷子に覆われ白骨化した遺体が完全な形で残っているのを発見した。また、その頭蓋骨の周囲には鉛の王冠があった。墓穴の周囲から大理石とアラバスターの破片が見つかったが、このことはロバート1世が大理石とアラバスターの石棺をパリで購入したという記録と合致する。
ロバート1世の遺骸は棺と状態の悪い鉛の覆いから取り出されて、ジェームズ・グレゴリーとエディンバラ大学解剖学部教授であるアレグザンダー・モンローによる詳しい調査を受けた。遺骨が測定されてスケッチが描かれた。それから彫刻家のウィリアム・スコーラーによって、頭蓋骨を基にして石膏像が作られた。骨の方は5フィート11インチ(180cm)あったことから、ロバート1世の若い頃の身長は中世の身長としては著しく高い6フィート1インチ(186cm)あったと見積もられる。この高さは、ロバート1世がエドワード1世(6フィート2インチ=188cm)と同じくらいの身長があったことを意味している。ロバート1世の遺体は、1819年11月5日に儀式に則った形で新たな鉛でできた棺に再埋葬されたが、その際、棺を封印する前に遺体が保存できるよう1,500ポンドの溶かしたピッチを注いでいる。