マリー・ド・フランス

文字数 1,390文字

アラゴン王フアン1世の2番目の妻ヨランド・ド・バルの母マリー・ド・フランスについて紹介します。作品集は下の画像から入ってください。
マリー・ド・フランスについては同名で有名な詩人がいるようで、その人についてばかり上位に出てきました。
マリー・ド・フランス(1344年ー1404年)は、フランス王ジャン2世の娘で、バル公ロベール1世の妻。
フランス王ジャン2世の子孫はたくさんいますね。
ジャン2世とその最初の妻ボンヌ・ド・リュクサンブールの間の第8子、四女としてサン=ジェルマン=アン=レーに生まれた。1354年にバル公ロベールと結婚した。夫は元はバル伯爵だったが、1354年にマリーの母方の叔父神聖ローマ皇帝カール4世によってバル公爵およびポンタ=ムッソン公爵に昇格を許された。
ボンヌはボヘミア王ヨハンの息子でカール4世の姉でした。
マリーは読書家で、数多くの書籍を集めた図書室を所有しており、その書籍のジャンルも非常に幅広かった。図書目録には物語や詩だけでなく、歴史や神学に関する著作も含まれていた。詩人ジャン・ダラスは『メリュジーヌ物語』をバル公爵夫人マリーに献呈し、この本はマリーの子供達の政治教育の助けとなればと思って執筆した、と献辞で述べている。
私の妻ヨランドも幅広い知識と教養を持っていました。それは母の影響が強いのですね。
マリーの息子たちは多くが戦場で命を落とした。長男アンリと次男フィリップはニコポリスの戦いに参加し、2人ともオスマン帝国軍の捕虜となって異国の地で客死した。四男エドゥアールと六男ジャンも、1415年にアジャンクールの戦いで戦死した。
ニコポリスの戦いは、ブルゴーニュ公ジャン1世が無謀な突撃を主張してボロ負けとなり多くの戦死者と捕虜が出ました。ジャン1世自身は身代金を払ってもらい釈放されてフランスに帰ってきましたが、戻って来ない者もたくさんいました。私の義理の父ロベール1世は長男と次男を失っているのです。ブルゴーニュに恨みを持つのは当たり前です。
・アンリ(1362年ー1397年)マルル領主

・ヨランド(1365年ー1431年)1483年、アラゴン王フアン1世と結婚

・フィリップ(1372年ー1398年)

・シャルル(1373年ー1392年)ノジャン=ル=ロトルー領主

・マリー(1374年ー?)ナミュール侯ギヨーム2世と結婚

・エドゥアール3世(1377年ー1415年)バル公

・ルイ1世(?ー1431年)ヴェルダン司教、枢機卿、バル公

・ヨランド(?ー1421年)ユーリヒ=ベルク公アドルフと結婚

・ジャン(1380年ー1415年)ピュイゼイ領主

・ボンヌ(?ー1400年)サン=ポル伯・リニー伯ワレラン3世と結婚

・ジャンヌ(?ー1602年)1393年、モンフェッラート侯テオドーロ2世と結婚

私はフランス王女のマリーを母に持つヨランドとの結婚に多くの夢を持っていました。教養豊かでたくさんの子がいる母の娘ならば、ヨランドもきっとたくさんの子を産むことができるはずです。フランス王家だけでなく神聖ローマ皇帝カール4世とも親戚となり、フランスの文化を取り入れたアラゴンは豊かで文化的な国になるはずでした。その手本になるフランスとバル家が戦争に巻き込まれなければ夢は実現したでしょう。でもブルゴーニュ家が戦争を巻き起こし、フランスとバル家はボロボロになってしまいました。
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登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

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