ニコラウス・コペルニクス(4)
文字数 961文字
コペルニクスが本格的に地動説の着想を得たのは1508年から1510年頃と推定されており、天動説では周転円により説明されていた天体の逆行運動を、地球との公転速度の差による見かけ上の物であると説明するなどの理論的裏付けを行っていた。
1510年にはコペルニクスは叔父のもとから独立し、再びヴァルミア領の律修司祭に戻り、フロムボルクにて職務に就くようになった。そしてこの年、コペルニクスは同人誌として「コメンタリオルス」(Comentariolus)を出版し、太陽中心説(地動説)をはじめて公にした。ただしこれは友人の数学者たち数人に送られたものに過ぎず、一般にはほとんど知られていなかった。
1511年には聖堂参事会の尚書に選ばれ、文書管理や金融取引の記録を行った。その後も有能で勤勉な副助祭として多くの仕事をする一方、フロムボルクの聖堂付近の塔で天体の観測・研究を続け、新しい理論の創造に向っていた。ただし、コペルニクスは理論家・数学者としては優れていたものの天体観測の腕は必ずしも良くなかったとされている。
コペルニクスの地動説は後に大きな議論を呼び起こしますが、それを考えたコペルニクス自身はとてもまじめで仕事熱心な聖職者だったということに驚きました。研究熱心で革新的な考えを抱きながらも仕事はきちんと行っているということは、現代でも重要なことだと思いました。
1512年にはヴァルミアの領主司教だった叔父のルーカス・ヴァッツェンローデが死去している。このころには天文学者内において少しずつ名が知られ始めており、1515年には開催中の第5ラテラン公会議において改暦が議題に上がる中、フッソンブローネ司教であるミデルブルクのパウルがコペルニクスに意見を求めている。