ウィリアム2世(8)
文字数 1,004文字
1100年8月2日、ブロックンハースト・ニュー・フォレストで狩りを行い、その際に矢を射られて亡くなった。ただし当時の状況はよくわかっていない。ウィリアム王の死について最も初期に記した文献はアングロ・サクソン年代記である。それにはウィリアム王は自身の従者によって矢を射かけられて亡くなったと記されている。のちにウィリアム王を殺害した貴族はウォルター・タイレルという名の貴族であったと追記されているが、これは後世に誇張されて記された内容である可能性もあり、正確かどうかは不明である。16世紀の好古家・詩人のジョン・リーランドは自身の著作においてウィリアム王が殺害された場所をより詳細に言及し、王は「Thorougham」という場所で殺されたと主張した。この地名は既に使われておらず、ボーリューのパークファーム周辺ではないかと推定されている。ボーリュー修道院にはウィリアム王の慰霊碑が建てられている。
王の遺体は王が倒れた場所に放置され続けたという。そしてその後、矢職人のエリ・パラットという者がウィリアム王の遺体を見つけ、数人の臣民らと共にウィンチェスター大聖堂に運び埋葬したと伝わる。ウィリアム王の死を聞きつけた彼の弟ヘンリーはウィンチェスター大聖堂に急行し王の財産を確保した上で、ロンドンに向かった。そしてどの大司教よりも先にロンドンに着き、当地でイングランド王に即位したという。
聖職者でもあった年代記作家にとって、このような「神の御業」は邪悪な王の正当な最後であり、彼らが属する宗教団体と対立した支配者の最後としてふさわしいと考えられていた。その後、何世紀にもわたって、ウィリアムの敵の一人がこの事件に関与したという明白な指摘が繰り返された。当時の年代記編者たちは、ティレルは鋭い弓の使い手として有名であり、そのような衝動的な射撃を行うことはありえないと自ら指摘したのである。さらにバートレットは、この時代には兄弟間の対立が政治的な対立の典型例であったと述べている。この日の狩猟隊にはウィリアムの弟ヘンリーもいて、彼の後を継いで王となった。