オールバニ公ロバート・ステュアート(1)
文字数 1,077文字
オールバニ公爵ロバート・ステュアート(1340年頃ー1420年)はスコットランドの王族。ステュアート朝の開祖であるスコットランド王ロバート2世の三男。惰弱な兄ロバート3世、イングランドに拿捕されてスコットランドに不在だった甥ジェームズ1世の在位中に摂政としてスコットランドの国政を主導した。
1340年頃、後にスコットランド王となるロバート2世の三男として生まれる。母はエリザベス・ミュア。ロバート3世は同母兄にあたる。
1361年にメンティス女伯爵マーガレット・グラハムと結婚し、妻の権利でメンティス伯爵の称号を称されるようになり、父が即位した後の1371年3月30日にファイフ伯爵に叙位されたが、1372年3月6日にこれを辞した。
1383年から1407年まで式部長官を務めた。
ロバート3世の病状が幾分か回復した1394年に彼は摂政から解かれ、ロバート3世の長男ロスシー公デイヴィッド・ステュアートがスコットランド王国統監に任命されて主導権を握った。ロバート3世は弟の不満を抑えるために1394年7月24日に彼をバカン伯爵、1398年4月28日にオールバニ公に叙位した。
1401年には無能なロスシー公が様々な問題行動を起こして、オールバニ公の所領フォークランドのフォークランド宮殿に幽閉されることになったが、ロスシー公は1402年3月26日にそこで死去した。そのため、王位簒奪を狙うオールバニ公によってロスシー公が故意に餓死させられたという噂が出回った。スコットランド議会から査問を受けたが、結局ロスシー公の死は「神の摂理によるもの」と結論されて公的には疑惑は晴らされた。そして事件後、オールバニ公の権力は再び高まった。