ジャン・ド・モンフォール(2)
文字数 793文字
1341年10月、シャルル・ド・ブロワとノルマンディー公ジャン2世(後のフランス王ジャン2世)は軍を集結させブルターニュへ侵攻した。その後、3週間におよぶ包囲戦の末彼らは1341年11月21日のナントを含む多数の砦を落とした。ジャン・ド・モンフォールは身柄を拘束され、パリのルーブル宮殿の獄につながれた。彼が不在の間、妻のジャンヌ・ド・フランドルが指揮をとって戦いを続行した。
1343年1月、教皇クレメンス6世を通じての休戦条約が平和をもたらし、ジャン・ド・モンフォールは自由になった。これは釈放ではなく、1345年3月に彼は逃亡したのである。イングランド王エドワード3世が提供した増強部隊と戦うこととなり、カンペールの包囲戦のさなか病を得、エンヌボンにて1345年9月に死んだ。ジャン・ド・モンフォールはブルターニュ公になれなかったが、同名の息子が1365年にブルターニュ継承戦争を終結させ、ブルターニュ公ジャン4世となった。
シャルル・ド・ブロワにとって、ジャン・ド・モンフォールは頭にくる相手で、フランス王家を味方にして向こうはイングランドを味方にしているから負けるわけにはいかない立場だと思います。フランス側から見ればジャン・ド・モンフォールに味方した都市や守備兵はもはや裏切り者、叛逆者でしかないと思うのかもしれません。でもだからと言って罪のない住民まで虐殺するのは間違っています。
1329年、シャルトルにてジャンヌ・ド・フランドル(ヌヴェール伯ルイ1世の娘、フランドル伯ルイ1世の姉)と結婚。2子をもうけた。
・ジャン4世(1339年ー1399年)
・ジャンヌ(1341年ー1402年)ドライトンのラルフ・バセットの妻