ジェームズ1世(イングランド王)(22)
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王侯貴族にとって礼儀作法は大切です。私は不真面目王などと呼ばれましたが、礼儀作法はきちんとしていましたし、娘のビオランテ(ヨランド・ダラゴン)は主に王妃が教育していたのですが、どこに出しても恥ずかしくない貴婦人に育ち、フランスに嫁いでいます。
しかし人々が優雅な振る舞いに惑わされること、礼儀を人々の意識に植え付けることが秩序維持に役立つことを熟知しており、『バシリコン・ドーロン』は後世において参考にされるほど政治において重要な作品になっていった。また、服装がだらしなく、男色にふけり派手な宮廷生活に汚職とスキャンダルの噂が絶えないにも関わらず、意見を率直に語り家臣には親しみやすく信頼されていた(対するチャールズ1世は父と全く違う性格で、妻子を大切にする家庭人で、質素な宮廷生活を送り、汚職を厳しく取り締まり、寡黙で近寄りがたい人間だった)
当代随一の知識人フランシス・ベーコンをイングランド王即位直後から目にかけ、ナイト叙爵をきっかけに翌1604年の特命の学識顧問官抜擢、1607年の合同論争で注目して法務次官に任命した。最終的に大法官まで昇進させ、爵位も子爵まで与えた。ベーコンも国王の側近として忠実に働き、しばしば議会との協調を呼びかけ、コークらコモン・ロー法律家と対立して国王大権擁護、法改革など助言と提案を重ね、1620年に著作『ノヴム・オルガヌム』を国王へ贈り、1621年に子爵に叙された時は国王へ感謝の言葉を述べている。ただし1621年議会でジェームズ1世はバッキンガム公を守るため、庶民院に弾劾されたベーコンをスケープゴートとして見放したため、完全に信頼していたとは言い難い(それでも弾劾されロンドン塔へ監禁されたベーコンを短期間で釈放させ、罰金も分割払いで済ませるなど失脚後のベーコンに便宜を図っている)