ティコ・ブラーエ(20)
文字数 1,021文字
ケプラーはウルシスを非常に高く評価していたが、この時にはティコに雇用されており難しい立ち位置にいた。ケプラーはティコとウルシスの惑星軌道モデルを両方とも支持していなかったが、ウルシスによる告発から雇用者であるティコを守らなければならなかった。1600年、ケプラーは小冊子『Apologia pro Tychone contra Ursum(ウルシスに対するティコの弁護)』を書き上げた。ケプラーはティコの手法とその正確な観測を強く尊敬し、ティコを科学的天文学再興の基盤をもたらす新たなヒッパルコスであるとみなした。
ケプラーの目撃証言によれば、ティコは礼を失することを避けるため、その宴会を途中退席して安静にすることを拒否した。帰宅した時には彼は排尿障害に陥っており、僅かな量の排尿しかできず、しかもそれは激痛を伴った。彼が死亡した夜、ティコは精神錯乱に苦しみ、ケプラーは頻繁に「無駄な人生を送ったと思われないことを望む」というティコの叫び声を聞いている。
死の前、ティコはケプラーに『ルドルフ表』の完成を託し、コペルニクスではなく自らの惑星系モデルを採用することを望むと伝えた。ティコは「賢者のように生き、愚者のように死んだ」という自身の墓碑銘を書き残したと伝えられている。当時の医師はティコの死因を腎臓結石に求めたが、1901年に彼の遺体を掘り起こして行われた解剖の結果、腎臓結石は見つからなかった。20世紀の医学的知見では、彼の死は恐らく尿毒症の結果であろうとされている。