ティコ・ブラーエ(20)

文字数 1,021文字

ティコ・ブラーエについての続きです。作品集は下の画像から入ってください。
プラハの宮廷にはニコラウス・ライマース(ウルシス)がいた。彼は以前、ティコの体系と同一のモデルである地球・太陽中心の惑星モデルを発展させた人物で、ティコが自身の考えを剽窃したと考えていた。
この時代もアイディアを盗むとかそういうことが問題にされたのですね。
ケプラーはウルシスを非常に高く評価していたが、この時にはティコに雇用されており難しい立ち位置にいた。ケプラーはティコとウルシスの惑星軌道モデルを両方とも支持していなかったが、ウルシスによる告発から雇用者であるティコを守らなければならなかった。1600年、ケプラーは小冊子『Apologia pro Tychone contra Ursum(ウルシスに対するティコの弁護)』を書き上げた。ケプラーはティコの手法とその正確な観測を強く尊敬し、ティコを科学的天文学再興の基盤をもたらす新たなヒッパルコスであるとみなした。
ヒッパルコス(紀元前190年頃ー紀元前120年頃)は、古代ギリシャの天文学者。現代にすべてつながる46星座を決定した、と書いてありました。
ティコはプラハでの宴席に出席した後、突如膀胱または腎臓の病気を患い、その8日後の1601年10月24日に死亡した。享年54歳であった。
ティコがプラハに移り住んだのが1599年なのでその2年後に亡くなっているのですね。
ケプラーの目撃証言によれば、ティコは礼を失することを避けるため、その宴会を途中退席して安静にすることを拒否した。帰宅した時には彼は排尿障害に陥っており、僅かな量の排尿しかできず、しかもそれは激痛を伴った。彼が死亡した夜、ティコは精神錯乱に苦しみ、ケプラーは頻繁に「無駄な人生を送ったと思われないことを望む」というティコの叫び声を聞いている。
かなり苦しそうです。
死の前、ティコはケプラーに『ルドルフ表』の完成を託し、コペルニクスではなく自らの惑星系モデルを採用することを望むと伝えた。ティコは「賢者のように生き、愚者のように死んだ」という自身の墓碑銘を書き残したと伝えられている。当時の医師はティコの死因を腎臓結石に求めたが、1901年に彼の遺体を掘り起こして行われた解剖の結果、腎臓結石は見つからなかった。20世紀の医学的知見では、彼の死は恐らく尿毒症の結果であろうとされている。
ティコ・ブラーエの死は疑惑が持たれ、後に何度か調査が行われています。
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登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

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