教皇ボニファティウス8世(2)
文字数 1,103文字
ローマを本拠にしていたイタリア有数の貴族コロンナ家が新教皇ボニファティウス8世に反感を抱いたのは、当初ボニファティウスの傲慢さが原因だったとも言われるが、アラゴン派に属していた彼らは教皇のシチリア政策にも反対していた。
そこで、前教皇退位の経緯に着目し、退位の合法性に疑問を呈した。もしも、この退任が教会法に違背しているならば、新教皇の正統性が揺らぐことになる。ボニファティウス8世はこれに対し、自らの保身のために前教皇をローマ南東36キロメートルのフモーネ城の牢獄に幽閉した。
1297年、コロンナ家はアナーニからローマへ移送中の教皇の個人財産を強奪するという実力行使に出た。その品はのちに返却されたが、コロンナ家はその後も「ボニファティウス8世は真の教皇にあらず」との声明文を発し続けたため、教皇はコロンナ当主とその一族を破門とする命令を発し、一族討伐のための「十字軍」を招集した。1298年、コロンナ家は教皇軍に屈したものの、その年のうちに反乱を起こし、やがてフランスへと逃亡した。
1294年、フランス国王フィリップ4世(端麗王)はガスコーニュやフランドルをめぐってイングランドと対立し、イングランド王エドワード1世に対して戦争を開始したが、長期化したこの戦争で必要となった膨大な戦費を調達するため、フランスではじめて全国的課税を実施し、税は教会にも課せられた。
しかし、戦費調達のための教会課税は教皇至上主義を掲げるボニファティウス8世にとって承知できないことであった。敬虔なキリスト教徒の国フランスはローマ教皇庁にとって収入源として重要な地位を占めていたため、教会課税は教皇にとって大きな痛手となったのである。