教皇ボニファティウス8世(4)
文字数 1,533文字
13世紀前葉、清貧をモットーにアッシジのフランチェスコよって創設された托鉢修道会のフランシスコ会は13世紀中葉まで歴代教皇の恩顧によって司牧活動における緒々の特典を認められており、それが各地の司教の反発を招いていた。
僕はフランシスコ会がキリストの考えを1番よく引き継いでいると思っています。なぜならばハインリヒ7世も罹ったレプラと呼ばれていた病の患者をキリストが癒し、フランシスコ会も同じ病の患者に手を差し伸べているからです。悩み苦しむ者にこそ手を差し伸べるべきだとキリストは言っています。でも聖職者はキリストの教えを守ることよりも自分の権利を守ることに一生懸命になっています。
1279年に教皇ニコラウス3世が「エクジイト・クィ・セミナート」でフランシスコ会の司牧特典を擁護したことをめぐって激しい論争が巻き起こったが、これが問題となったのは、この時期の貨幣経済の進展が著しく、司教たちが秘蹟の授与など司牧活動に収入源を大きく依存せざるをえなくなってきたという社会の変化と、フランシスコ会への特典がすべて教皇の個人的な恩顧によるものであり、教会法の中で規定を設けない状態のままになっていたという法的不備の問題が背景にあった。そこでボニファティウス8世はこの問題を決着させるべく、1300年に教皇勅書「スーペル・カテドラム」を発布して聴罪や葬儀に関わる限定的な一部の規定以外の特典を廃止する決定を下した。
また、フィオーレのヨアキムの著作の影響がフランシスコ会にもおよび、1255年にフランシスコ会修道士のボルゴ・サン・ドンニーノのゼラルドによってヨアキム主義的な『永遠の福音入門』が出版されると、その反響は大きく、教皇アレクサンデル4世はヨアキム主義を否定したが、13世紀後半には、北イタリアから南フランスにかけての地域で、ヨアキム主義の影響を受けたフランシスコ会の少数派が清貧の厳格な実践を唱えるようになった(スピリトゥアル主義)
ヨアキムはエデンの園での人間の堕落の後、神はその埋めあわせのために、歴史に精神原理を導入する必要があったと考え、さらに三位一体的構造を世界史に当てはめ、全歴史は三つの時代からなるとした。第一の時代は「父の時代」で、地上においてはイスラエルの民が選ばれた司祭と預言者の時代であり、旧約の時代にあたる。第二の時代は「子の時代」であり、教会の時代で、キリスト以後現在まで続いているとした。これは過渡的な時代であって、1260年ころから始まる「聖霊の時代」によってやがて克服される。この第三の時代において聖霊は直接個人個人に語りかけ、現在ある教会秩序や国家などの支配関係に基づく地上的秩序は必要がなくなり、兄弟的連帯において修道士が支配する時代が来るとされる。
北イタリアのスピリトゥアル主義(心霊派、厳格派)は、1280年以後フランシスコ会内部でも弾圧されたが、教皇ケレスティヌス5世はこれに同情的で「教皇ケレスティヌスの貧しき隠遁者」として分離が赦された。しかしボニファティウス8世は、これを弾劾している。