教皇クレメンス5世(1)
文字数 1,107文字
フランス王フィリップ4世(端麗王)はフランドル戦争の戦費調達のために教会に対して課税し、教皇至上主義を掲げる教皇ボニファティウス8世と激しく対立し、1303年、フランス王国のレジスト(法曹官僚)ギヨーム・ド・ノガレに命じてボニファティウスの捕縛を計った。これがアナーニ事件である。フィリップ4世は教皇捕縛には失敗したが、辱められたボニファティウス8世は憤死した。
ついで、同年10月にベネディクトゥス11世がローマ教皇に登位したが、わずか8ヶ月後に急死した。その死後は1年の空白があり、アナーニ事件以来、教皇庁への圧迫を強めたフィリップ4世の後援により、1305年6月、ベルトラン・ド・ゴがクレメンス5世として教皇に選出された。
普通は教皇が亡くなったらすぐに次の教皇が選ばれなければならないのに1年も空白期間があり、フィリップ4世の強い影響下でクレメンス5世が選ばれました。神学者のジャン・ジェルソンが言った通り、教会大分裂の原因はフィリップ4世にあったのですね。
その登位もフィリップが臨席した上で南仏のリヨンにおいて戴冠式が行われた。このように教皇クレメンス5世の治世は、当初からフィリップ4世の強い影響下にあり、クレメンス5世により多数のフランス人枢機卿が任命された。
クレメンス5世は結局、一度もローマに入ることなく、1308年、教皇庁をフランス南東部のアヴィニョンに遷した(アヴィニョン捕囚)当時、アヴィニョンはプロヴァンス伯兼ナポリ王のアンジュー=シチリア家の領内にあり、フランスの強い影響下にあった。以後約70年間、教皇庁はアヴィニョンにあって教皇権はフランス王の強い影響のもとに置かれることになった。