ジギスムント(2)
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ハンガリー王なったジギスムントの課題は、バルカン半島で膨張著しいオスマン帝国への対策であった。オスマン帝国のハンガリーへの侵入はラヨシュ1世の頃から始まっていたが(ラヨシュは1375年にオスマン軍を撃破していた)1389年に即位したバヤズィト1世の下で勢いを増していた。
この間、マーリアの死という悲運に見舞われたが(1395年)イングランド、スコットランド、フランス、神聖ローマ帝国諸侯、フランドル、イベリア、ポーランド、ボヘミア、ワラキアなどから次々と将兵が集まった。
ニコポリスの戦いは1396年9月25日に、ドナウ湖畔のニコポリスでオスマン帝国のバヤズィト1世(在位1389年ー1402年)とハンガリー王ジギスムント率いるヨーロッパ諸国(参加勢力、ハンガリー、神聖ローマ帝国、フランス、ワラキア、ポーランド、イングランド王国、スコットランド王国、スイス原初同盟、ヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国、マルタ騎士団)との間で起こった会戦である。
対オスマン戦を熟知しているジギスムントはブダにオスマン軍を引きつけて消耗させる案を示したが、血気盛んなブルゴーニュ公ジャン(無怖公)がエルサレム解放の大義を掲げるのに押され、積極的な攻撃策を採ることになった。
こうして10万を超える軍勢が出撃したが、カトリックを奉じる西欧騎士と正教を奉じるバルカン戦士との確執、旧態依然の騎士突撃戦法が仇となり、ジギスムントは辛くも逃げ延びた。その後、バヤズィト1世が1402年のアンカラの戦いでティムールに敗北したことで、ヨーロッパはしばらくの間オスマンの脅威から解放されることになる。
ニコポリスの戦いは私の死後(1396年5月19日)に起きた戦いですが、どうしてみんな無怖公のような無茶な人の言うことを聞いて過激な戦いをするのでしょうか。ニコポリスの戦いは惨敗で悲惨な結果に終わっています。それでも捕虜になった無怖公は釈放されて元気いっぱい、フランスでいろいろやらかして、私の義理の孫シャルル7世を悩ませました。