ティコ・ブラーエ(29)

文字数 863文字

ティコ・ブラーエについての続きです。作品集は下の画像から入ってください。
熱烈な反太陽中心モデルの主張者だったフランスの天文学者ジャン=バチスト・モランは1650年に、楕円軌道を巡る、ティコの惑星モデルとティコ版の『ルドルフ表』の簡略版を考案した。ティコの体系は17世紀を通じてある程度採用されており、18世紀初めまでは使用されていた。
ティコの体系はかなり後の時代まで使われていたのですね。
このモデルは(コペルニクス論争についての1633年の判決の後)、イエズス会に端を発する「親ティコ文学の洪水」によって支援された。イエズス会の親ティコ派の間では、1691年にイグナス・パルディがティコ体系が未だ一般に採用されている体系であると宣言し、フランチェスコ・ビアンキーニが1728年までそれを繰り返した。ティコの体系への固執、とりわけカトリック諸国におけるそれは、ティコの体系が(カトリックの教義と関係して)「古代と現代の安全な接合」を行う必要についての要求を満足させる性質を持っていたことによる。1670年以降においても、多くのイエズス会の著作家は、コペルニクス的な考えを僅かに秘めるのみであった。しかしドイツ、オランダ、そしてイングランドではティコ体系は「遥かに早く文献から消え去った」
結局カトリックの国、特にイエズス会の人は長い間ティコの体系を支持し、プロテスタントの国ではティコ体系は早い時期に捨てられていたのですね。宗教の違いで天体の動きをどう解釈するかまで違ってくるなんて、すっきりしませんが・・・
1729年に公表されたジェームズ・ブラッドリーによる光行差の発見は最終的にティコのものを含むあらゆる地球中心説が成立しないことを示す直接的な証拠を提供した。光行差は観測された恒星や惑星から来る光の速度が有限であることと共に、観測された天体の見掛けの方位に影響を及ぼし、地球が太陽の周囲を1年周期で公転しているという想定に基づいてのみ満足に説明が可能であった。
この時代になってようやく地球中心説がはっきり否定されたようです。
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登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

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