バレンシアの歴史(5)
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スペイン王国が新大陸を発見すると、ヨーロッパの経済は地中海中心から大西洋中心の貿易活動に移行した。スペイン王国はカスティーリャ王国とアラゴン連合王国が合併して成立していたが、新大陸の征服と搾取はカスティーリャ王国が独占し、カタルーニャ人、アラゴン人、マヨルカ人同様に、バレンシア人も大西洋をまたぐ貿易への参加を禁じられた。事業の喪失に直面し、バレンシアは深刻な経済危機に陥った。
1519年から1523年にはハプスブルク家出身のカルロス1世に対してジェルマニアの反乱として職人組合の反乱がバレンシアで起こった。この反乱は君主制に対する反発、封建制に対する運動であり、1519年の黒死病の流行前に都市から逃れていた封建貴族に対する社会的反乱の意味合いがあった。
母親のファナ(1479ー1555)はカスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世の娘です。ファナはフィリップ美公と結婚して6人の子供に恵まれますが、夫フィリップ美公の浮気に悩まされ、夫の死後は精神に異常をきたして幽閉されてしまいます。
カルロス1世はフランドルで生まれ、1517年までネーデルランドで育ちます。1516年に祖父フェルナンド2世が死去すると、母ファナと共同統治でカスティーリャ王になり、1517年に初めて「本国」スペインに入ります。
カスペの妥協の時と同じです。カスペの妥協でアラゴン王にカスティーリャ王子のフェルナンド1世が選出され、この時はまたフランドルで生まれネーデルランドで育ったカルロス1世がスペイン王になっています。どちらも母の血で王位を継承していますが、男系ではないので父から子へと受け継がれた王の精神はこの時途切れてしまいます。
ジェルマニアの反乱はまた反イスラーム運動という側面もあり、アラゴン連合王国に住むムデハル(キリスト教徒の再征服地に住むイスラーム教徒の残留者)に対する暴動を起こし、ムデハルにキリスト教への強制改宗への義務を果たした。
この反乱の時に反イスラーム運動が起きたり、強制改宗があったということは、前の時代、バレンシアの黄金時代まではかなりの数のイスラム教徒やユダヤ教徒が住んでいたということですよね。繫栄している時は宗教の違いはさほど問題にならない、でも経済的に行き詰った時、憎悪の矛先は異教徒に向けられてしまうのです。悪いのはカスティーリャの搾取や王位継承のやり方であって、異教徒が住んでいたから暴動が起きるというわけではないと思います。