エルサレム王アモーリー1世(4)
文字数 1,256文字
10万ディナールという多額の貢納とアモーリーの残した駐留部隊(貢納取立てのフランク官僚を保護するため)のおかげでエジプトでは反フランク、親ヌールッディーン感情がくすぶりはじめた。この不穏な空気を感じ取ったエジプトのフランク人たちはアモーリーに助けを求めた。これを受け1168年10月、エジプト遠征を胸にアモーリーはエジプトへの四度目の遠征を敢行する。
アモーリー1世が何度もエジプト遠征を繰り返したのは野心からだけではなく、当時のエジプトの複雑な状況があったからだというのはわかります。それでも遠征ということを行ってしまえば多くの人を殺してしまうので、それは神の望むことではないように思います。
アモーリーはエジプトはヌールッディーンの助けなしに自身の敵ではないと知っていたからだ。しかし、前回の同盟の立役者だったテンプル騎士団はせっかくの同盟をぶち壊すこの遠征に反対し、その進言が受け入れられぬと知ると遠征への不参加を表明した。これとは対照的に聖ヨハネ騎士団はこの遠征に賛同し、大兵力を投入した。
エジプトに侵入したエルサレム軍はビルバイスを落とし、住民を虐殺した。この虐殺はアモーリーにとって最悪の結果を生んだ。この事件はカイロの親フランクのエジプト人にさえアモーリーに対する徹底抗戦を決意させ、シャーワルは町を明け渡すぐらいなら破壊すると言わんばかりにカイロの旧市街地に火を放たせた。
シャーワルはヌールッディーンの介入なしでアモーリーに撤退を説得しようとしたが、カリフのアル・アーディド自身がヌールッディーンに対して救援を求める手紙を送った。これを受け、ヌールッディーンは三度シールクーフを派遣する。しかし、今回はアモーリーとシールクーフの対決は起こらない。カイロに火を放ったカイロ市民の決意に驚き、ヌールッディーンに背後を突かれるのを恐れ、1169年1月2日にアモーリーはは撤退した。シールクーフが到着したのはそれから6日後だった。
この件で影響力を失ったシャーワルは殺され、代わりにサラディンがエジプトの宰相に就任した。この遠征の失敗でアモーリーはヌールッディーンの介入とシールクーフ・サラディンの影響力を許し(そしてこれは後にサラディンによるアイユーブ朝の樹立につながる)、(これまではファーティマ朝とヌールッディーン政権は宗派の違いから対立していたが)エジプトとシリアから挟まれる形になった。さらに、アモーリーはエジプトとの同盟と朝貢という前回での成果の全てをも失った。