オンフロワ4世・ド・トロン(8)

文字数 1,422文字

オンフロワ4世・ド・トロンについての続きです。作品集は下の画像から入って下さい。
マリア・コムネナは、イザベルが8歳の時、ボードゥアン4世が彼女にオンフロワ4世と結婚するよう強制したのだと主張した。これを受け、教皇特使のピサ大司教ウバルド・ランフランキとボーヴェ司教フィリップ・ド・ドルーがオンフロワ4世とイザベルの婚姻の取り消しを宣言した。しかし教皇インノケンティウス3世が調査したところ、取り消しの儀に出席していた騎士の一団が、イザベルとオンフロワ4世の双方が取り消しに抗議していたと証言した。カンタベリー大司教ボールドウィン・オブ・フォードは死の床でイザベルとコンラートの結婚は姦通にあたるとしてこれを禁止した。しかしこれを無視して、コンラートは1190年11月24日にイザベルと結婚した。
オンフロワ4世とイザベルは政略結婚で若い時に結婚させられ、今度は無理やり離婚させられる、なんだか気の毒です。
ギー・ド・リュジニャンは、エルサレム王位を諦めておらず、1191年5月にキプロス島のリマソールにいるイングランド王リチャード1世の下を訪れた。オンフロワ4世も彼に帯同した。ギー・ド・リュジニャンとオンフロワ4世は、リチャード1世に臣従礼をとった。リチャード1世は、アラビア語の堪能なオンフロワ4世を、サラーフッディーンの弟でリッダ(現イスラエル領ロード)にいるアル=アーディルの下に派遣し、交渉を試みた。リチャード1世は妹ジョーンをアル=アーディルに嫁がせ聖地を持参金として贈るという案を提示したが、この交渉は何も合意に至ることができず終わった。
合意には至らなくてもこのような交渉があったということに驚きました。キリスト教徒とイスラム教徒はもしかしたら違う歴史をたどったかもしれないのです。歴史は活躍した王や英雄、戦争の結果ばかりが重要視されますが、別の可能性があったかもしれないということを知ることで、戦争や虐殺を避ける方法を考えられるのではないかと思いました。
1192年4月28日、コンラートが2人の男に暗殺された。暗殺者の一人が暗殺教団のラシード・ウッディーン・スィナーンの手の者だと白状したにもかかわらず、同時代の資料ではオンフロワ4世に黒幕の疑いがかけられている。しかし近代以降の歴史家たちは、オンフロワ4世は無実だと意見で一致している。というのも、「オンフロワ4世の経歴の中に、どんな場面にも彼が主導権を握ろうとした例がない」からというのが大きな要因である。未亡人となったイザベルは1192年5月5日にアッコでシャンパーニュ伯アンリ2世と再婚した。
このような評価ばかりされているオンフロワ4世が気の毒です。
アンリ2世も1197年に死去すると、イザベルはキプロス王エメリー・ド・リュジニャンと再婚した。それから間もない1198年、オンフロワ4世は死去した。彼の継承領地であるトロン卿領は、1229年にエジプトのスルターンであるアル=カーミルと神聖ローマ教皇フリードリヒ2世の交渉により再興された。この封土を受け取ったのは、オンフロワ4世の妹イザベル・ド・トロンの曾孫マリー・ダンティオケであった。
オンフロワ4世の人生は周りの人に振り回されてばかりいて情けないですが、彼が野心家だったらエルサレム王国はもっと大変なことになっていたかもしれないと思いました。

次回からイザベルと再婚したモンフェラート侯コンラート1世について調べてみます。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色