スペイン語で読むアラゴン建国の祖ラミロ1世(3)
文字数 1,738文字
さあ今日も張り切ってアラゴン王国建国の祖、余の祖父ラミロ1世についての話をしよう。作者は日本ではあまり知られていないアラゴン王国の歴史についてスペイン語交じりで話せば読む人がいなくなると心配していたが、読者数はむしろ増えている。
このパネル写真はラミロ2世が生きていた時と亡霊になってからも長い間暮らしていたウエスカの修道院で撮ったものですけど、亡霊は新しい時代にできた物はよく見えないみたいです。修道院の壁や柱はよく見えても、作られた年代や材質の違うパネルは見えない、これも亡霊の特質だそうです。
1055 La acción militar sobre el distrito musulmán de Barbastro permite ampliar Sobrarbe incluyendo el monasterio mozárabe de San Cucufate de Lecina, Olsón y Abizanda.
1055年 バルバストロ地区のイスラム教徒への軍事行動により、ソブラルベの領土を広げることが可能になり、そこにはレシーナのイスラム教徒の僧院であるサン・ククファテやオルソン、アビサンダも含まれていた。
1062 RamiroⅠ inicia un proceso de reconquista por el sur de Ribagorza, tomando Benabarre, Laguarres y Lascuarre.
1064 Muerte del rey. Las fuentes no son claras, de unas se puede inferir que tras incorporar Capella, Torreciudad y Fantova, el rey muere en una batalla ante Graus o El grado...Otras fuentes hablan de que murió de enfermedad(Anzánigo),unos años despues.
1064年 王が亡くなる。死因は明らかでない。可能性があるのは、カペジャ、トレシウダッドとファントバを領土に入れた後、王はグラウスあるいは同レベルの敵との戦いで亡くなったということである。他にはその1年後に病気で亡くなった(アンサニゴ)とも言われている。
えっと、ラミロ1世はナバラのサンチョ3世大王の子で、庶子だったために他の兄弟より狭い土地しかもらえなかったのですが、戦いに強く、また政治手腕にも優れていたために、アラゴンの領土を少しずつ広げることに成功しました。