モンペリエとペドロ2世

文字数 934文字

今日はミゲル・セルベートに関する本の中で、モンペリエでも医学を学んだという文章が出てきたので、モンペリエとペドロ2世について話題にしたいと思います。
おおー!ついに余の時代がやってきたか。
作品については下の肖像画のページから中に入ってください。
おい、いつもに比べて肖像画が大き過ぎる気がする。
大きな肖像画で見ると、やっぱりペドロ2世は迫力がありますよ。
そうだろう、そうだろう。さすがはフェリペ、そなたは見る目がある。
モンペリエで1220年に成立した医学校は、1289年に法学部とともにモンペリエ大学として教皇ニコラウス4世の承認を受けると書いてありました。
僕は医学部と言えばパリの大学が有名だとずっと思っていましたが、モンペリエ大学も選択肢の1つとして考えていいのですね。
私はパリの大学で医学を学んだが、モンペリエ大学も医学の名門として有名だ。
もっと後の時代になりますが、有名なノストラダムスもモンペリエ大学で学んでいます。
大学の話はそれぐらいにして、余とモンペリエの関係について話をさせて欲しい。
はい、どうぞ。
1204年に余はモンペリエ領主ギレム8世の娘で女子相続人のマリア・デ・モンペリエと結婚した。そして息子ハイメ1世が生まれた。モンペリエはこの結婚によってアラゴンのものになった。
それで夫婦仲はよかったのですか?
いや、よくない。目的は領土拡大だ。
アラゴンの王様って本当にそういう人多いですよね。ラミロ2世もそうだったし・・・
余が結婚したのは王家の血を絶やさぬためだ、目的が達成されればもう王妃に用はない。
ペドロ2世が亡くなったのは1213年だから、モンペリエに医学校ができるより前ですよね。
それはそうだが、モンペリエがアラゴンの領土になったのは、余のおかげだ。それに我が子ハイメ1世はモンペリエ、つまりフランス人の血が濃く流れている。
でも、モンペリエが領土になったことで、フランスでの領土をめぐる争いに巻き込まれ、結局ペドロ2世はカタリ派に味方したという理由で破門され、戦死していますよね。
それはそうだが、細かいことは気にしなくてよい。大学で有名なモンペリエはペドロ2世の時代にアラゴンの領土になった。今日の授業はここまで!
にゃんか強引に話をまとめているにゃー。
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登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

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