ウィリアム2世(4)
文字数 914文字
ウィリアム赤顔王は王国統治を安定させた。ノルマンディー公国での場合と同じように、イングランド王国では司教や修道院長は封建的責務を通じて王と強く結びつき、ノルマンディーの伝統に基づく国王による叙任行為は当然の行為として認められていた。
当時のヨーロッパでは叙任権闘争が繰り広げられており、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は闘争の末に一時破門宣告を受けたほどであったが、イングランドでは大して問題視されなかったのだ。また当時の国王の個人的権力は大法官庁を通じて地方レベルにまで浸透していたといい、これは当時のフランス地方では類を見ない構造となっていた。国王の統治と法律により王国は統合され、教皇の非難を比較的受けにくくなった。そして1097年には「王国の威厳と権限を諸侯に示し付けるため」にウエストミンスター宮殿を建造した。
1093年、ウィリアム王は酷い病気に罹漢し精神状態が悪化し、ノルマン系イタリア人聖職者のアンセルムスをカンタベリー大司教に任命した。アンセルムスは当時最も偉大な聖職者として知られていたという。しかしこの任命により教会と王国との対立を生むこととなった。アンセルムスはランフランクスに比べ、グレゴリウス改革を強く支援する聖職者の1人であったからだ。ウィリアム王とアンセルムスは教会関係の多くの事項において対立した。