クレメンス6世(1)
文字数 1,283文字
教会の組織機構を整備させた一方、ナポリ女王兼プロヴァンス女伯ジョヴァンナからアヴィニョン市を買い取り(1348年)、前教皇ベネディクトゥス12世が始めた教皇庁宮殿の建設などを行ったために財政状況は悪化したという。(なお、アヴィニョンはフランス革命まで教皇領として続く)。教皇庁建設には各地から画家が集まり、国際ゴシック様式の普及に一役買った。
その豪奢な生活でも知られており、「どんな君主も、金遣いの派手さでかなう者はなく、気前のよさでも匹敵する者はいない」、白テンの毛皮を1080枚も所持し、「ギャンブルや競馬」に打ち興じ、「教皇の宮殿は.....時間を問わず、つねに女性を歓迎」していたという。
酷いですね。クレメンス6世はカール4世の家庭教師をしたくらいだから、すごく頭がよくて幅広い知識を持った人だったのでしょう。僕は幅広い知識を持っていればよい行動ができ、そういう人が教皇や皇帝になれば世界はよくなると信じていました。でもそうではないようです。がっかりしました。
即位後の1343年、ローマ市民代表のニコラ・ディ・リエンツォ(通称コーラ)がアヴィニョンを訪れ、教皇のローマ帰還を熱心に訴える。教皇はコーラの訴えに感銘を受け、第2回聖年(1350年)を実施する旨を定め、コーラに祝福を与えた。
コーラはローマに帰った後、1347年に護民官となってコロンナ家などの貴族層を抑え、市の実権を握る。(コーラ革命とも呼ばれる)。アヴィニョンにいた人文主義者・ペトラルカも多大な期待をかけていたが、コーラは次第に尊大な振る舞いに出たため、教皇庁からも批判を受け、まもなく失脚、後に捕らえられてアヴィニョンに移される(コーラは次の教皇インノケンティウス6世のときに再びローマの実権を握るがまたも失脚、最後は処刑された)。