ティコ・ブラーエ(12)
文字数 734文字
ティコはウラニボリの塔は計測器具が風雨に暴露し、また建物が動くため、天文台として十分な機能を持っていないことに気付き、2つ目の地下天文台を1581年にスターニボリに建設した。この地下室には蒸留や化学実験を行うための16器の窯を備えた錬金術研究所が付随していた。この時代では珍しいことに、ティコがウラニボリに設置した研究センターではおよそ100人の学生と職人がおり、1576年から1597年まで働いた。
ウラニボリはまた、スカンディアヴィナで最初期に属する印刷所と製紙工場もあり、これによってティコは自分の透かしを入れた現地生産の紙で研究成果を出版することができた。彼は製紙工場のホイールを回すための貯水池と運河のシステムを構築した。
長年にわたってティコはウラニボリで研究を続け、数多くの学生や弟子から補佐を得た。彼らの多くが天文学への道を歩んだ。その中には後にティコ体系の主たる支持者となり、ティコの代理としてデンマークの王室天文学者となるクリスチャン・ソレンセン・ロンゴモンタヌスやピーザ・フレムルーセ、イリーアス・オールスン・モースティング、そしてコート・アスラクスンがいた。ティコの観測器具製造業者ハンス・クロールもまた、この島の科学コミュニティの一員となった。