ヨハネス23世(対立教皇)(1)
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経歴は怪しく、ボローニャ大学で学んだ後海賊、軍人になったとも言われる。ローマ教皇ボニファティウス9世の下でローマ教皇庁へ仕え、1396年に助祭長、1402年に枢機卿に任命され、1403年から1408年にボローニャの教皇特使にも選ばれた。行政手腕があったが出世欲、虚栄心もあったと言われ、ボローニャで不品行な貴婦人の情夫になったとの噂も流れた。
1409年にピサ教会会議で選出されたアレクサンデル5世が翌1410年に急死した後、メディチ家当主ジョヴァンニ・デ・ビッチの支援でコッサが教皇位に就く。この時も醜聞が流れ、アレクサンデル5世はコッサに殺されたとの噂もあったという。メディチ銀行は教皇庁との取引で莫大な利益を上げ、教皇庁の財務管理を任されて15世紀末までこの立場を保った。
同年9月、ローマを占領していたラディズラーオを討伐するため十字軍を計画、贖宥状を翌1412年5月にボヘミアへ販売したことがフスらプラハ大学教授陣の猛反発を招き、7月に再度フスを破門、プラハへ聖務停止命令を布告してフスをプラハ退去へと追いやった。一方1415年5月にルイ2世ダンジューと共にローマを占拠するが、1413年6月にラディズラーオの軍にナポリを追われ、フィレンツェに逃亡した。
ヨハネス23世のやっていることは世俗の王のようで教皇らしくないです。それに職有状まで出してフスから猛烈に批判されています。もしこの時に選ばれた教皇が別の人だったら、コンスタンツ公会議の結果は違ったものになったかもしれません。