フランス王ルイ7世(5)
文字数 939文字
即位前の1135年から勃発したイングランドの内戦(無政府時代)にも介入し、イングランドと同君連合だったノルマンディー公国にも内戦が波及すると、イングランド王スティーブンを支持して息子ウスタシュ(ユースタス)と臣従関係を結び、1138年に妹コンスタンス・ド・フランスをウスタシュと婚約させた(1140年に結婚)
1141年にはスティーブンのノルマンディー公位も認めたが、1144年にスティーブンと対立していたマティルダの夫のアンジュー伯ジョフロワ4世がノルマンディーを奪うと、一転してジョフロワ4世のノルマンディー領有を認めた。シャンパーニュ遠征でノルマンディーにまで手が回らなかったため、ジョフロワ4世から割譲されたヴェクサンとジゾール獲得と臣従で妥協したのだが、ジョフロワ4世とは後に衝突することになる。
1144年末にエデッサ伯領がザンギーに奪われたとの報せがヨーロッパに届くと、ルイ7世は十字軍参加に応じて2年余りを準備に費やし、1147年にベルナルドゥスの勧誘で知られる第2回十字軍に参加した。アリエノールもアキテーヌ諸侯を説得して参加者を増やし、援助と引き換えにフォントヴロー修道院など教会への寄進や特権の更新も盛んに行い資金を調達、アキテーヌ軍を引き連れ夫と共に参加した。信仰篤い上、1143年の惨劇に対する贖罪を十字軍に求めていたルイ7世に対し、アリエノールは物見遊山目的であり、王妃の随員や衣類などの荷物だけで部隊が形成された上、その護衛部隊も必要となり、進軍の多大な妨げとなっていた。こうしたことから、フランス軍がアナトリア半島でルーム・セルジューク朝軍に惨敗した原因ともなった。内実はともかく、国王夫妻はベルナルドゥスの支持を背景にシュジェールや重臣たちの反対を押し切って5月12日にサン=ドニを出発した。